マインドフルネスを実践する上で大切な3つのこと
マインドフルネスを実践する上で大切な3つのこと
今日はわたしが大切にしているマインドフルネスはもとより、ダルマを生きるために大切にしていること3つを紹介させてください。(ちょっと辛口になるかも)
① 自分に素直になること
② 自分で考えること
③ 自分から実践すること
①自分に素直になること
自分に素直になるということは、自分にウソをつかないということです。そういうと、『我慢していたことをもう我慢しない』という意味に聞こえるかもしれません。ここではむしろ反対で、我慢してでも自分のマインドがはみ出したい方向に広がっていくことを防ぐ、それが素直になることです。簡単に言うと、プライドや被害者意識やなまけ心にエサをあげないということです。古いパターンに甘んじて、コンフォートゾーンに留まろうとする自分がいることを素直に認める、これがここでいう自分に素直になることです。
プライド、なまけ心、被害者意識、嫉妬や怒りのせいで人を責めたいような気持になったときに、自分をなぐさめようとしたり、恋人や友人の誰かに愚痴を聞いてもらうことでスッキリしたりしていませんか?これがマインドフルネスの敵です。なぜかと言うと、愚痴を聞いてもらうこと=自分を正当化してもらうことだからです。自分にとって良くないパターンを認めてもらって、正当化することになってしまいます。
自己受容、ありのままの自分を受けいれるというのは、『わたしはもともとこうだからいい』と現状に甘んじることを指すのではなく、『わたしにはこんなイヤな部分があったんだ』ということを悲観したり、評価したりせず、歪めずに、逃げださずに認めることです。これが変容への飛躍的一歩になります。
②自分で考えること
上座部のお経はまずマインドセットを変えていく上でとても合理的な内容になっています。日本のみなさんが親しんでいる般若心経のように複雑な内容にはなっていません。毎日あるべき態度がつらつら書き連ねてあるだけのものがとても多いです。上座部の教えは基礎の基礎ですので、書いてあることが当たり前になるまで何度も何度も繰り返し聞いたり、言ったりします。それに慣れていくことで、マインドのパラダイム・シフトが起こります(だから大乗では声聞乗というのでしょう)。その中でも『自分で考えましょう』という部分があり、これが変容の軸になります。
ブッダがこう言ったから、自分の先生がこう言ったから、経典に書いてあるから、耳心地がいいから、いい気分になるから、それだけじゃ理由になりません、エヒパシコ=自分で考えましょう、と。
これは日本人にはちょっと耳が痛い話かもしれません。『これを教えてください』『これはどういう意味ですか?』『こんな時はどうしたらいいですか?』という質問をよくいただきますが、わたしはいつも『あなたはどう思いますか?』とまず答える前に質問で返します。海外に住んでいて、日本の人は自分で調べたり、検証したりすることが苦手だな、と正直感じます。
例えばわたしが質問に回答したら、そのまま鵜呑みにしてしまう人がとても多いのです。そしてまいこさんが言ったから、ということになる。わたしは欧米優生志向ではないですが、日本人はファクトチェックをしない人がとても多いというのが印象です。自分で考えてみてください、と言っても、調べることをしない人がとても多い。知らないことについて考えをめぐらせてみても、狭いところで考えが堂々巡りするだけです。
自分で考えて、自分で調べてみてください。みんなこうだよね、と答えをひとつにしようとしないで、自分の意見を持ってください。自分が何を受入れて、自分が何を信じるかは自分の責任です。
好きか嫌いか、印象が良いか悪いかなんとなく感覚だけで判断するのは勘とは違います。それこそマインドフルネスから遠いところに行ってしまいます。無意識的な自分の思考グセをどんどん捉えていくことがマインドフルネスです。自動的に何でも受け入れて信じていたら、その時だけ分かったような気になったり、スッキリしたり、自分が変わったように感じても、マインドの自動運転はそのまま稼働しています。だから結局行ったり来たり、アップダウンすることになるでしょう。
③自分から実践すること
最後に大切なことは、自分から実践することです。もちろんはじめのうちはクラスに参加したり、リトリートに行ったりという環境づくりからはじまると思います。ですがその環境に甘んじていては、いつまでたっても『癖』が変わりません。
先に述べたファクト・チェックと一緒で、クラスに参加して満足、リトリートを経験して満足、講座に参加して満足、というのでは何も変わりません。そしてすぐに教え始めてしまう人も多い。それでやり方は解っていても、智慧が育っていないからあたふたしたり、疲れてしまうわけです。ちょっと厳しいと思われるかもしれませんが、自主練が一番の効果(智慧)を得る方法だとわたしは思っています。自主練と言ってもただ座るだけを実践と言っているわけではありません。
そのむかし、わたし自身もお寺に自分で行くような人間ではありませんでした。わたしの気功の先生がお寺に行く時についていく、というのがわたしの『習慣』でした。先生はたくさんの高僧や瞑想の師を知っていらっしゃったので、ついて行くといつも素晴らしい方々にお会いできました。アジャン・チャーの甥にあたるご住職にお会いしたこともあります。お寺に行ったあとはいつも良い気分でした。でも自分で行ったことがなく、いつも『先生の外国人の弟子のひとり』という感じでサンガに参加している感じではありませんでした。
そんなある日ふと疑問に思って、『わたしはなぜ自分の意志でお寺に行かないのだろう?』と思ったのです。その翌日、先生と日頃から訪れていたお寺にひとりで托鉢に入れるお供えものを持って行ってみました。すると、どうでしょう、ご住職やお坊さんたちにとてもよろこばれて、ものすごくもてなしてくれたのです。
ご住職は『自分で来るのが一番大事なことだよ、いつでも来なさい、聞きたいことがあったらいつでも直接聞きなさい。』と言ってくれたのです。この時何かのドアが開いたような感じがあってとても嬉しかったことを覚えています。
その後しばらくすると今度は、見えるところでのダーナ(お供え物)だけではなく、見えないところにお供え物をしてみよう、と思い立ったことがありました。そこで誰も見ていない時に週に一回、近所にある小さなお堂の掃除をし、お供え物をするということを始めました。
自主的な行動を続けていると、自主的に瞑想することが習慣になりました。それは自分を戒めて、自分を整えるために、毎朝絶対座る!というような固い意志による癖付けではありません。とても自然に、当然のように瞑想が暮らしの一部としてそこにありました。だから忘れる日も往々にあります。それでも呼吸を観察する、ということがいつのまにか自然と暮らしの中にあるのです。(実はこれを書いている今もそうです。)
徳がないと瞑想も起こらない
以前お坊さんに、『徳がないと教えを聞く機会(ご縁)もないし、聞いても理解することができない、瞑想も起こらない、だから徳を積むことが行と同じくらい大事』と言われたことがあります。その時はどういう意味だかまったくわかりませんでしたし、正直瞑想と徳は関係ないと思っていました。その時は、まずは徳とは何かがわかっていなかったのです。徳とは単に良いことをすることや、お布施をすることだと思っていました。
蓋を開けてみると、実は自分に素直になり、自分で考え、自分で実践していくことが徳を積む行為そのものだったのです。
徳を積むということは、何かを熱心に学ぶことだったり、動物や植物を世話することだったり、子供を育てることだったり、老人のお世話をすることだったり、洗濯や掃除など日々の家事であったり、家を建てたり、お店のレジをすることだったり、郵便を届けることだったり、歌うことだったり、すべての行為の中に存在します。ただそこに徳があると気づいているかいないかで、もらえるのにスルーしているカードのポイントみたいなものです。
そこに気付いて一滴一滴の雨漏りが一晩でバケツ一杯になるように、気づきがひとつひとつ溜まって、ご縁をつないでくれます。それがつながったとき、ああそうだったのかと智慧を得ることができるのです。
だから精進のためには日々、徳を積むことが大事。徳を積むためには、やっぱりマインドフルネスが大事。マインドフルネスを実践するためには、徳が必要。すべてはつながっていて、切っても切れない関係にあるのがダルマ(法)です。
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