この身体は乗り物である
今回のブログ記事のタイトルはずばり
「この身体は乗り物である」
ぱっと見、危ないお薬をやってるのかな?という感じのタイトルです
ですが、「この身体は乗り物である」というのは実際に私が瞑想をし始めた当初に体験した感想というか「気づき」なんです
瞑想を始めた当初、私はマハシーメソッドのラベリングのマインドフルネスをしておりましたが、お腹の膨らみ縮みに意識を向けひたすら瞑想をしていた時のことです
ふと、身体の感覚が楽になり多幸感のような不思議な充実感がでてきたとき、直感的に心と身体が分離しているような感覚が現れたんですね(まぁこれは錯覚なんですが)
しばらくこの感覚を味わっていると「この身体は乗り物なんだ」という理解というか、気づきが現れて(あーなるほど〜)ってなったんですね
そして、私は今まで本当の意味でこの「心(ホーム)」に帰って来たことが無かったなと思ったんです
つまり、今まで私は本当の居場所というか自分の還る家は自分の外にあると考えていて、いつも外にばかり答えを探して回っていたんですが、本当は自分の中に還るべき家(ホーム)があったんやなぁと気づきました
あーこの身体はただの乗り物なんやなぁと、それが自分の身体!という想いと執着、または思い込みによって輪廻していたという事を理解したんですね(まぁ輪廻事態を理解したのはもっとあとのほうなんですが)
私がよく言う「全く問題ない、全く問題ないというところ(居場所)に還る」とお話しますがそれはまさにこの「心」そのものなんだよということです
つまり現実的な意味で問題が有る無いから離れた上で全く問題がないんだという居場所を心のスペースに持っておくというのが、心(ホーム)に還る、安らぐという在り方なんですね
ですが私達は、心が乱れ外に答えを求めまったくホーム(居場所)に還らない、ホームレスな在り方でこの身体を放逸(だらしがない、乱暴または節度がない)に扱う事が常なんです
放逸である私達はまるで乱暴なドライバーが運転する車そのものです
車というものは非常に便利な一方、その安全性はドライバーの技術、倫理観や道徳観に委ねられています(もちろん全てではないが)
スピード違反や追い越し、信号無視や近頃問題になっている煽り運転や飲酒運転、あげたらキリがないのですがまさに三毒(欲、怒り、無智)に忠実なドライバーの運転する車は凶器そのものです
ところが私達はこの身体を運転して三毒に惑わされ、時にとんでもない過ちを犯すときがあります。
やらかしてしまうんですね
なぜそうなるかというと仏教用語でパパンチャ(妄想:三毒に基づく感情)によって快不快でこの世界を分別し「自分」という妄想にハマっているからなんですね
パパンチャとは例えばある対象を見た時にそれを認識した途端に快不快、欲望、怒り、嫉妬様々な感情がでてきて妄想するんです
その妄想には必ず「自分」という主語を入れてあれこれ妄想します
そして一喜一憂し、むさぼり、執着してしまう
さてこの「妄想」というのは「雑念」とよくごっちゃに勘違いされますが、明確に違うんですね
雑念というのは自然に出てきたイメージ(想:サンニャ、識:ヴィニャーナ)もしくは気分や感情ですが、妄想はそれに対して意思(欲)を持って展開している状態です
例えるならば雑念は車の「アイドリング」です
信号待ちや停車してる車がすぐに動けるようにエンジンを無負荷で稼働している状態の事を「アイドリング」といいますが、雑念も同じ事です
脳がすぐに対応できるよう、常に雑念を作り出して稼働しているんですね(雑念には全く意味がないが、雑念に意味づけすると妄想に変化します)
ですから 妄想というのは信号待ちの車の中で行う「カーセックス(三毒)」であるといえます
カーセックス以外にもある時は煽り運転や、信号無視という法律違反もしてしまうし、私達はこの乗り物(身体)を使って常に放逸に好き放題にしているんです
三毒に従って感情を野放しにして我が物顔で危険な運転をしてしまうという事ですね
またメンテナンス(健康管理)しないといけないのに暴飲暴食もしますし、一時の快楽のために薬物をしたりお酒を飲み過ぎてアル中になる人達もいますよね?
そして好き放題に運転して違法に駐車して、カーセックスするわ、外(に求めて)に出たっきりで全く「心のホーム(居場所)」に還らない
挙げ句の果てに自分探しの旅とかしたり、新興宗教にハマって大金を布施して教団のカモになったりします
ですからパパンチャ(三毒に基づく感情、妄想)に振り回されて、乗り物を放逸に扱い執着するとそれが輪廻の世界やというわけです
ブッダはニッパパンチャ、つまり不放逸であれと言われたんですね
きちんと冷静に自分の居場所に還って、乗り物を正しく倫理的に理性的に扱いなさいよと
全く問題ない、というところに還って対立の世界、刺激の世界、妄想の世界(フィクション)から離れてダンマと共にありなさいというのがブッダの言葉です
この身体は乗り物である、故にドライバーである自分には「責任」があるんだ!という事です
五体満足であろうと無かろうと、貧乏であろうと無かろうと、男であろうが女であろうが、偉かろうが愚かであろうが
輪廻する存在として、これ以上輪廻をしないという決意(意志)を持ったものが賢者であり、輪廻を止めた者が聖者です
私達は産まれた時から無免許でこの身体を運転してるようなものですが、不放逸な在り方へと意志を持って行動しそれをなし得た聖者(阿羅漢)が本当の免許取得者であり、仏教は2500年間の間、師匠から弟子へと「免許皆伝」してきましたからね
そして輪廻からの「解脱」とは免許返納ですね!
ですから今日の仏教が伝えているのは何も信仰心や徳を詰むことだけではなく、自分と向き合い自己向上に努めて安らぐ在り方で人生を渡っていく方法です
その方法の一つに坐禅があり、念仏があり、論理的思考(ブッダの言葉)があるんです
ただそれだけの事で、仏教は特別なものではない、「当たり前のことを当たり前にする」という事なんですね
中国の古典に「無為自然」というのがありますがまさにこれなんですよ
さて今回のブログは少し長くなりましたが、まとめるとこの身体は乗り物でありいずれは滅していくのだから、執着をしないで死ぬまで丁寧に付き合っていきましょうというお話でした
それではみなさんごきげんよう!
(2021年4月の記事から編集有り)