心の池を濁さない 静寂ということ
こんにちはトミボーディです
今回は池の喩えのお話をいたします
池の水面に一滴の雫が落ちたとしましょう
その小さな衝撃は緩やかに水面に波紋として円を描き、水中に微弱な振動として水底まで伝わります
池の中を泳ぐ魚や海老達はもしかしたら腹の空かした者がその雫の小さな衝撃に反応するかもしれません
ですが、水底に眠る魚達は反応さえしないでしょう
魚達が池の水がひっくり返るような大騒ぎはしないはずです
ところでこの喩えを私達人間に置き換えると、どうでしょうか?
ほんの少しの刺激でも、心はものすごく反応してしまいませんか?
ちょっと人から嫌味を言われた、肩がぶつかった、そのくらいの事でも私達は嫌な気分になり、時には大きく反応してしまい、人間関係がこじれたりトラブルに発展してしまいます
私達の心にある、池の水は普段は綺麗に澄んでいても、一度ちょっとした刺激で池の水がひっくり返るくらい大騒ぎをしてしまう
それが人間の不放逸な心だといえます
一度荒れた心の池は底に沈殿したヘドロ(煩悩)が舞い上がり水中は沼のように濁ります
その様な池には悪臭がし、濁り、腐り、近寄り難いものとなります
リアルな池なら不法投棄をされたり、心霊スポットみたいな扱いをうけるかもしれません
そうしましたらヤンキーや半グレの様な人達が肝試しをしにくるかもしれません
自殺願望のある人もくるかもです
つまりいい事は一つもないですね
私達の心もこのようなものです
ちょっとした刺激に大げさに反応してしまう、その様な傾向、習慣性があるという事です
ですので仏教では「静寂な在り方」として放逸でいなさい、と言われています
心と身体に起きる現象(名色)を冷静に観る、気づいている
そして「全く問題ない」というところに還る
心に本当の意味で「居場所」というか、全く問題ないんだというスペースを作ってあげる
反応しない、静寂につつまれている安堵感
池の水が全く澄んでいて雫の波紋もただそのままに、ありのままに観る
その静寂が安穏であり、健全な心であるとブッダは語っています
そして仏教では「悪因悪果」という言葉があります
悪い行いをすれば悪い結果が返ってくる
私達の煩悩(三毒)に従えば悪因悪果をしてしまう
人間の心にはそういう習慣性、傾向があるという事を知り、心の居場所にいつでも還れる
それがマインドフルネス、ヴィパッサナー瞑想の目指すところであり、ブッダの智慧なんですね
今日はここまでにしときます笑
ではまた
(2020年11月の記事から)