「死とは」を考える前に「“私”とは?」
著者の田坂氏が、講演終了後に聴衆の一人から「死とは何でしょうか?」と問われた際、こう答えたそうです。
死とは、ひとつ、この世に存在しなくなることだと思います。
何が存在しなくなることかというと、
それは“私”が存在しなくなること。
じゃあ“私”とは一体何を指すのか?
例えば、私の左手が何らかの理由で失われてしまったとします。
左手が失われたことを、私は嘆き悲しみますが、“私”がいなくなったとは思いません。
左手は私の一部かもしれませんが、“私”そのものではありません。
肉体の一部一部を切り取って考えたとき、それらが“私”そのものだとは思いません。
一般的に心臓が止まったら、それは死だと認識されます。
心臓=私?
心臓が動いていれば、私が存在しているということ・・・?
例えば、もし私が仮に、非常に徳を積んだ人間として生きていて、周りの人を助け、慕われているとします。
あるとき、ひょんなことから脳に外傷を負い、人が変わったように暴力的になります。人を傷つけるようになってしまいました。
周りの人々はびっくりします。昔のように、優しくて助けてくれるあの人はもういない、と思います。
以前と変わらない私の肉体と心臓は、そこに存在します。
ですが、周りの人は、昔の人助けをするあの人はいない、と思い、「あの人は死んでしまった」に近い気持ちを抱くのではないでしょうか。
他にも、あなたが「自己紹介をしてください」と言われると、何を話しますか?
自己紹介=“私”の紹介です。
ある映画にこんなシーンがあります。
自分探しの旅に出ている主人公が「あなたを表す言葉は何?」と問われます。
主人公は「作家」だと答えるのですが、「それは職業でしょ?それはあなたを表す言葉ではない。」と言われてハッとします。
私は自己紹介が非常に苦手ですが、研修などでは愛媛に住んでいて、大学はどこを出て、今はこんな仕事をしていて…過去にはこんな仕事もしていて…くらいを伝えると、聴衆は安心してくれるようです。
まぁこの場合の自己紹介だと、歩んできた軌跡を知るだけでいいからOKでしょう。
でも実は、それは決して“私”の紹介ではありません。
会社の中での存在だけを大切にしてきた人が、それが過度に行き過ぎるとその肩書がなくなった瞬間からどうしていいかわからなくなったり、もしくはまったく脈絡もなくいきなり「昔は◯◯会社で部長をしていた」などとただ誇示するためだけに以前の役職を伝えてきたりして。
役職を剥奪されてどうしていいか分からないのは、役職=“私”だと思っている人でしょう。
でも、役職や役割は、あくまで役職や役割であって“私”ではありません。
“私”とは一体、何なのでしょう?
そう混乱すると、“死”も一体、何なのだろう?と混乱します。
私は「死」の、何を恐れているのでしょうか・・・?