Dialogue For Peace【ダイアログ・フォー・ピース】

私たちの目的は「すべての生命が安心して生活できる社会の実現(世界平和)」です。そのための小さいけれど大きな一歩として、自分や他者と、さらに社会や世界とつながり、平和が広がる「対話」の可能性を信じています。 私たちは「自分と、そして他者とつながる対話」を広げる活動をしています。

Dialogue For Peace【ダイアログ・フォー・ピース】

私たちの目的は「すべての生命が安心して生活できる社会の実現(世界平和)」です。そのための小さいけれど大きな一歩として、自分や他者と、さらに社会や世界とつながり、平和が広がる「対話」の可能性を信じています。 私たちは「自分と、そして他者とつながる対話」を広げる活動をしています。

最近の記事

「神様に文句を言う」そんな信仰があってもいいのでは

「神様」という言葉を聞くと必ず思い出すのは、マザー・テレサは神様に文句を言っていた、という話です。 マザー・テレサは言わずと知れた聖人です。 『マザーテレサ 来て、わたしの光になりなさい』という本には、マザー・テレサがカトリック教会の神父たちに送った、個人的な書簡や日記の一部が収められています。 そこには、「神の存在が感じられない」「祈っても応答がない」という孤独や虚無感について記されていたそうです。 慈愛が深ければ深いほど、救おうとすればするほど、目の前から苦しむ人

    • 神はいるのか?いないのか?:笑い飯 哲夫のサタデー・ナイト仏教『神はどこにいらっしゃるのか。ホームレス支援を30年以上、奥田知志牧師のお話』

      今回はちょっと趣向を変えて、ラジオをテーマに対話したいと思っています。 お笑い芸人の笑い飯・哲夫さんがパーソナリティなので、気軽に聞けておすすめです。 ゲストはNPO法人抱樸(ほうぼく)の代表でもあり、キリスト教の牧師でもある、奥田知志さんです。 奥田さんのエピソードをラジオから一部ご紹介します。 ・・・・・ 「神はどこにおられるのか?」 幼い頃から神様の存在を信じ、困ったときには祈れば何とかしてくれると思っていた奥田知志さん。 しかし、大学時代に大阪の日雇い労

      • 自分自身を慈しむことが他者を助ける:『はじめての利他学』

        「利他」が偽善的であるという印象を持つ人もいます。だから実際には行動に移さないことがあるかもしれません。 この感覚の背後には、どこか「利他」が悪用されてきた時代や思想があったのではないでしょうか。 例えば、「お国のため」という教育の影響や、それに対する反省が、こうした疑念に繋がっているのかもしれません。 だからこそ、「自利利他」という「自利」がセットになっている考えは、私たちにとって救いになるのではないかと感じます。 他人を活かそうとするときに決して自分自身を犠牲にす

        • 忘己利他と自利利他:空海と最澄からの学び

          最澄は天台宗の開祖、空海は真言宗の開祖です。ふたりはほぼ同時期に活躍しました。 最澄が重視したのは「忘己利他」であり、自己を忘れて他者を第一にすることに意識を向けました。 一方、空海は「自利利他」であり、「自他ともに」という点を重視し、「自己を深めることと他者の救済は一つ」だと弟子にも説いています。 どちらも「利他」を探求しているので、これもまた、どちらが優れているとか正しいということではありません。 自分が…自分が…という意識だけで生きてきた人には自分を忘れて他者を

          利己でも自己犠牲でもない道:自利も利他も共に実る、日本的“利他”

          ​ 10月のキーワードは「利他」です。 「利他」というと、ちょっとザワッとする方もいらっしゃるかもしれません。 それはもしかしたら「利他」にこんな解釈をされているかもしれません。 利己的ではないことが利他 自分本位ではなく他者本位の生き方 他者を思いやり、相手の立場に立って行動する…それがどちらかというと、自己犠牲の上に成り立つという印象がある 偽善的なかんじがする 実は「利己的ではないことが利他」という解釈は、「西洋的な“利他”」の考えなのです。 西洋に「利

          利己でも自己犠牲でもない道:自利も利他も共に実る、日本的“利他”

          吉田松陰や西郷隆盛も学んだ、細井平洲(へいしゅう)の教え

          現代社会で語られる「リーダーシップ」は、多くの場合、他者を導くことや、さらには他者を動かし、コントロールする力として誤解されているように思います。 しかし、リーダーシップには3つの観点があります。 1)Lead the self  → 自分を導くこと 2)Lead the people  → 他人を導くこと 3)Lead the Society  → 社会を導くこと 私たちが考えるリーダーシップの基盤は、【自らを導くこと(Lead the self)】です。 これが備

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          困難を乗り越えた藩主、上杉鷹山(ようざん)

          上杉鷹山(うえすぎようざん)は、江戸時代中期の大名で、米沢藩の第9代藩主として知られています。 当時の米沢藩は深刻な財政危機に陥っており、領民は貧困に苦しんでいました。 そんな中、たった17歳で藩主になります。 それから藩の財政を立て直すための改革を行い、その成果から「名君」として称賛されています。 彼の改革は、農業の振興、産業の育成、倹約の推進など多岐にわたります。 鷹山のとても印象的なエピソードがあります。 江戸時代には、主君押込(しゅくんおしこめ)という制度が

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          歴史から時代を超える知恵を学ぶ

          歴史が苦手な人こそ 私ははっきり言って、あまり好きではありません。社会の授業の「とりあえず、ひたすら覚える」という印象が残っているからです。 随分前に、日本史が好き!という人に会ったとき、「どんなところが好きなの?」と聞くと、「人間関係がドロドロしているところ」と答えていました。笑 そのときに、私は歴史の表面的なところしか押さえようとしていなかったんだ、と気づきました。 なぜ私たちが歴史を学ぶのか 過去に起こったことは過去に起こったことであり、同じことが起きるわけな

          「良きこと」と「悪しきこと」という分離が無い:『すべては導かれている』

          「すべては導かれている」 そうは言われても、素直にそうは思えない場面はいくらでも思いつきます。 例えば、何かしらで思い詰めている人に軽々しく「すべては導かれているんだよ」なんては言えません。 その人にとっての苦しさがあるでしょうから。 他人の人生に口出しをするわけではなく、自分の人生を生きるとき、私には以下のメッセージが心に響きました。 「悪しきこと」と思える出来事も、実は「良きこと」なんだよ〜ということも書かれてあるのですが、それよりも、 「悪しきこと」もなければ

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          時間を奪う「灰色の男たち」:ミヒャエル・エンデ『モモ』

          「灰色の男たち」は『モモ』に登場する重要なキャラクターです。 彼らは物語の中で時間泥棒として描かれており、その存在は物語の中心的なテーマである時間との関係性を象徴しています。 その中で、こんなお話があります。 フージー氏は一流の理髪師としての生活に満足して暮らしていました。 ある雨の日、お客を待ちながらふとこんな考えが浮かびます。 フージー氏は別に、おしゃべりも、はさみを動かすことも嫌いではなかったのですが、心の中に、不意にそんな考えが入り込んできたのです。 そこ

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          「今この瞬間」を充実させる、ベッポの言葉:ミヒャエル・エンデ『モモ』

          さて、今回「灰色の男たち」について紹介しようと思っていたのですが、その前に。 『モモ』の中に、ベッポという登場人物がいます。 ベッポは街の清掃員として働いていて、毎日道路や公共の場所を掃除して、仕事を真面目にこなしています。 ベッポは時間を大切にしていて「今この瞬間」を充実させることに重きを置いています。 ベッポはとても長い道路の掃除を割り当てられて終わりが見えないとき、こう考えます。 彼は一歩一歩の作業に集中し、その中に満足感や喜びを見出しています。 まさに「今

          「今この瞬間」を充実させる、ベッポの言葉:ミヒャエル・エンデ『モモ』

          時間への探求:ミヒャエル・エンデ『モモ』

          先日の対話会は「死」について見つめる時間でした。 本を読んでいる人も読んでいない人も、それぞれに「死」について関心事を持ち寄って対話をしました。 その中で個人的に気づいたことは、私は自分が無くなることは恐れていないけれど、死の瞬間には恐れを抱いているということ。 痛いとか苦しいとか、そういう気持ちを味わいたくないと強く思っているんだと、改めて認識しました。 その瞬間のことは、自分では選べないものではありますが、恐れているんだということを認識できたことでもしかしたら今後

          時間への探求:ミヒャエル・エンデ『モモ』

          「死とは」を考える前に「“私”とは?」

          著者の田坂氏が、講演終了後に聴衆の一人から「死とは何でしょうか?」と問われた際、こう答えたそうです。 死とは、ひとつ、この世に存在しなくなることだと思います。 何が存在しなくなることかというと、 それは“私”が存在しなくなること。 じゃあ“私”とは一体何を指すのか? 例えば、私の左手が何らかの理由で失われてしまったとします。 左手が失われたことを、私は嘆き悲しみますが、“私”がいなくなったとは思いません。 左手は私の一部かもしれませんが、“私”そのものではありま

          「死とは」を考える前に「“私”とは?」

          死を考えることは、縁起でもないこと?

          以前、知人と話をしていたときに、「死について語ることはタブー視されている」という話になって、びっくりしたことがあります。 なんでもその人は、友人に何気なく死について話を振ったとき、「死を考えるなんて、縁起でもない!」という反応をされたそうです。 もちろん、何かしらの要因で死が目の前に近づいていることをひしひしと感じられている状態で、死について考えることは非常に恐ろしいことだと思います。 そんなふうに、他人に死を突きつけることはできません。 ただ「やみくもに恐れるだけ」

          死を考えることは、縁起でもないこと?

          死は存在しないと思いますか?

          歳を重ねるにつれ、身近な人から少しの御縁があった方まで、人の死というものに直面する機会も多くなりました。 昨年、ふとした瞬間に「人は死んだらそれで終わりだと思っていたけれど、終わりじゃないんだな」という実感が湧きました。 以前の私は「確かに家族くらいはふとしたときに思い出すかもしれない。だけれど、私が死んだからといって世界は回るし、死んだからって何ともないことなんだろうな」と思っていました。 それは言い換えれば「死んだら無だ」と思っていたのかもしれません。 確かにどん

          人生が私に期待すること

          このフレーズを読んで、これまでの自分を振り返りました。 これまでの私は、人生を自分の従属的なもの、つまり、私の後に人生がついてくるような、自分で作り上げた結果が人生であるような気がしていました。これからどんな人生を歩むか、と未来を考えたときですら、自分が影響を与えられるものとして、人生を見ていました。 ところが、この一節は「私」と「人生」が切り離されています。 これまで、自分が人生に期待しているとは考えていませんでしたが、そう言われると、思いっきり期待をかけていたように