能力主義の乗り越え方を考えてみた(でもまだ未解決)
前回からの続きです。
今回に限らずなのですが、なにか問題だなということがあるとき、あれがダメだ、これがダメだという指摘とともに、じゃあどうしたらいいんだろう?ということをセットで考えるべきだと思っています。
ただ、問題が大きい場合、どうしたらいいのか?ということが全然分からないときもあります。そんなときでも、これが足がかりになるのではないか、とささやかかもしれないけれど、ポイントのひとつはこれじゃないか、と正解か不正解かは分からなくても、思いを巡らせることが大事だと思うのです。
で、これまで能力主義(メリトクラシー)にいかに自分がどっぷり浸かっているか、洗脳されていることに気づかなかった!というところから、それに対して、ちょっと疑問を持つ、というレベルアップ?をしたわけですが、じゃあどうするの?ってことも、私ごときが完全な答えを導き出せるわけはないのですが、考えてみたいな、と思うのです。
以下のstand.fmで鬼丸さんとも話していますが、
別に能力主義が全部間違いだったとか、それを完全になくすべきだとか、そんな極端なことは私も思っていません。
うまく機能している部分もあるでしょうし、言葉通りに実現するのであれば、
出自に関係なく、自分の生きたいように生きられる社会であるほうがよいと思っています。
ただ、ほころびが出てきているところは、時代に併せて修正していくとより一層いいんだろうなと思っています。
まずひとつは、思い込みからの脱却です。
才能と努力の許す限り出世が可能である、というアメリカン・ドリームは、
全然アメリカンではなくて、実はアメリカにおいて、貧困層から富裕層へ上昇できる可能性は、ヨーロッパなど他の国々よりも低いそうです。
私がアメリカ人で、アメリカン・ドリームを信じていたら、めちゃくちゃショックな事実です・・・え〜、それがアメリカの強みじゃなかったの?それを信じてたから頑張ってきたのに…となります。
なんとなく、そうなんだろうな、と思っていても、そう断言されると、びっくりです。
日本という文字が出てきました。日本の方が、アメリカよりは、経済的流動性、つまり、努力と才能があれば出世することが可能な確率が高いそうです。
にもかかわらず、
なんとく、過小評価するヨーロッパ人の気持ちが分かる気がするのは私だけでしょうか。
で、私自身は、能力主義にとらわれる価値観はもういいかな、それから離脱したいな、と思うので、じゃあ、どうやったら能力主義を含んで超えられるのかというと、それは、上記のように各国の状況や意識が異なるように、お国柄などによって乗り越え方がちょっとずつ変わってくるんじゃないかな、と思うんです。それを、みなさんと一緒に知恵を絞って考えてみたいのです。
能力主義の歴史としてサンデルさんはこうおっしゃいます。
つまり、人間が善い行いをすればそれに対して神は褒美を与える、というのは宗教的儀式や善行を行えば行うほど、神は救済をお与えになる…「神は自分の好き勝手にではなく、人びとの功績に応じてそれを行なう」ということだし、「苦難が深刻であればあるほど、犠牲者が自らそれを招いたのではないかという疑いが深まる」という考えがもとになっている、ということです。
日本でも、たしかに善い行いをすれば、お天道様が見てくれている、と豊作などといった褒美を与えてくれる感覚はありますし、お布施も多いほうが往生できるような、そんなことも聞いたことがあるような…
ただ、ふとここで思い出したのが、親鸞聖人の悪人正機説(あくにんしょうきせつ)「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや」という教えです。
これは、「善人でさえ浄土に往生できるのです。ましてや悪人はいうまでもありません。」という意味です。え?逆じゃない?悪人でさえ往生するのだから、善人はもちろん、ということじゃないの?悪人ならなおさら往生できるって・・・
こんなところにヒントがあるんじゃないかなぁと思うのです。長くなったのでまた今度。
あなたはどう思いますか?
(文責:森本)
追伸。
「悪人正機説」は100分de名著『歎異抄』を参照しています。
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