「良きこと」と「悪しきこと」という分離が無い:『すべては導かれている』
「すべては導かれている」
そうは言われても、素直にそうは思えない場面はいくらでも思いつきます。
例えば、何かしらで思い詰めている人に軽々しく「すべては導かれているんだよ」なんては言えません。
その人にとっての苦しさがあるでしょうから。
他人の人生に口出しをするわけではなく、自分の人生を生きるとき、私には以下のメッセージが心に響きました。
「悪しきこと」と思える出来事も、実は「良きこと」なんだよ〜ということも書かれてあるのですが、それよりも、
「悪しきこと」もなければ、「良きこと」すらないんだ、という部分がしっくり来るのです。
え?どういうこと・・・?
著者の田坂氏は三十数年前、それほど長くは生きられないという診断をされ、医者にも手立てがない状況で、
ある禅師の言葉を受けて「いまを生きる」という覚悟を定めたとき一つの思いが心に浮かんだそうです。
勝手に解釈をしてしまうならば、「良きこと」「悪しきこと」といちいちジャッジを下すよりも、
すべてを「良きこと」としてまるっと受け止めて生ききってみようじゃないか、という覚悟が決まった瞬間なのだろうな、と感じます。
命が僅かしかないと思っていた状況で、病気を知り、あのときあぁしていればと後悔したり、これからどうなるんだろうと不安でいっぱいな中で、
こんなことが起こった、あぁこれは悪いことだ。不運なことだ。
こんなことができなかった、あぁこれは失敗だ、悪いことだ。
なんてことをしている暇はないんじゃないかと、ジャッジすることを諦めたのではないでしょうか。
ただ、やっぱり思います。
とても自分では抱えきれない悲しみが襲っているのであれば、なぜこんな運命にしたのだ、と、天を呪ってもいいと思います。
確か、マザー・テレサも、神に向かって、なぜ、弱きものを救ってくれなんだ!と文句を言っていた瞬間がある、と聞いたことがあります。
そんな時を過ごして、考えを改めてもいいかもしれない、という気持ちが生まれたときに、この世は「良きこと」も「悪しきこと」もないものだとしたら…と思考実験を試してみればいいのだと思います。
私はこの本を読んで、こんなことを感じましたが、別に同じ感想を持つ必要はありません。
本をご紹介したかっただけで、対話会もこの話を軸に進めるわけではありません。
「私は、こんなことを感じた、こんなふうに思った」
「私にはここがピンときた」
本を読まなくても、田坂氏の言葉、単語ひとつでも十分です。
それぞれのポイントを教えていただいて、
それぞれに解釈が広がって、それぞれが生きやすくなったらいいな、と思うのです。
「良きこと」も「悪しきこと」もないならば、正解も不正解もないでしょう。
そして成功も失敗もないならば、「こうすべき」「これはしてはならない」もないでしょう。
「良きこと」と「悪しきこと」を分離し、対立的に捉える「分離・対立の思想」から解き放たれたとき、
私たちに、何が起こるのでしょう・・・?
(※以前開催した「答えのない対話会」に関する「メールde対話」を転載しています。)
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