能力主義のダークサイド
前回からの続きです。
この本を読んで、一番ハッとしたと同時に納得したのは「能力主義(メリトクラシー)は労働の尊厳をむしばむ」という言葉を見つけたときでした。それは「能力主義において貧しいことは自信喪失につながる」ということにもつながります。どういうことか・・・
貴族社会、つまり生まれながらの身分で成功が決まっている場合であれば貴族は貴族で、この地位や名誉は自ら手に入れているわけではないことを自覚し、市民は市民で、今の立場を自分のせいにはしません。地主などが、自分よりも優れたりふさわしいからその地位にあるのだと思うことなく、運がいいに過ぎないことを分かっているからだと言います。
一方で、能力主義の社会は異なります。
確かに、今の私はひねくれてしまったので、成功者をみても、また、成功事例や成功哲学として語っているのを聞いても、素直に聞くところは聞きますが、時と場合によっては「運もある」と話半分…とまではいかなくても、幾分差っ引いて聞くようになってしまいました。
でも、以前の私はそうじゃなかった。自分がもっと努力すれば、もっと変わることができたら、もっと、もっと…と、できない自分を責めていたように思います。
そして、こうも続きます。遺伝や身分、家庭、民族など偶然の要素による有利なこと、不利なことをきちんとクリアに見つめることができれば、
「今の自分の環境=私の価値」は思い込みであり、事実はそうではない、ということです。
もしある人が悲惨な状況にあるとしても、それはその人がその程度の価値だから、とか、そういうことじゃない、と。逆もしかりで、ある人が大成功を収めたとて、その人がそれだけの価値があるから、ということではない。環境によって、自分を過剰に傷つける必要も、自信過剰になる必要もないのです。
さらに、裕福で権力を持つ人が自分たちの特権を失わないように、不正をしてきたとか、チャンスが平等に与えられていないとか、そういった問題はこれまで聞いたことがありますが、
と言われて、なるほど、たしかにその想定はしたことがなかったと思ったのです。私自身、能力主義の考えに、どっぷり浸かりきってしまっているのです。
能力主義においては、すべては「自分が招いたもの」として片付けられてしまいます。
過去の事例を見ても、「社会に恨み」を抱いて何か事件を起こしたとき、もちろんやったことは責められるべきですが、それ以前の環境すらも「自分の責任」であり、本人の努力が足りなかったなどの言葉で片付けられてしまう傾向にあると感じます。それは本人が一番、自らを責めることをしていて、そしてさらにうっ積してしまう…本当にそれは健全な社会なのだろうか?
それもまた、すでに特権を得ている人たちに洗脳されているということではないだろうか?不平等を正当化されているという罠にハマってしまっているんじゃなかろうか?
あなたはどう思いますか?
(文責:森本)
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