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やりたいことに、理由はいらない

さて、前回からの続きです。

中村医師のやっていることを考えると「到底私にはできそうにない」という気持ちとともに「なぜ、そんなふうに活動ができるのだろうか?」と多くの人が思うようです。

私も例外ではありません。その気持ちが強いからでしょうか、以下の最初の記事

にも書きましたが、そういう部分がよく目に留まります。

それで、ふと思うのです。自分がやりたいと思う以上に、他人が納得するための明確な理由って必要なのでしょうか?

この土地で「なぜ二十年も働いてきたのか。その原動力は何か」と、しばしば人に尋ねられます。人類愛というのも面映(おもはゆ)いし、道楽だと呼ぶのはあまりに露悪的だし、自分にさしたる信念や宗教的信仰がある訳でもありません。良く分からないのです。でも返答に窮したときに思い出すのは、賢治の「セロ弾きのゴーシュ」の話です。セロの練習という、自分のやりたいことがあるのに、次々と動物たちが現れて邪魔をする。仕方なく相手しているうちに、とうとう演奏会の日になってしまう。てっきり楽長に叱られると思ったら、意外にも賞賛を受ける。
私の過去二十年も同様でした。決して自らの信念を貫いたのではありません。専門医として腕を磨いたり、好きな昆虫観察や登山を続けたり、日本でやりたいことが沢山ありました。それに、現地に赴く機縁からして、登山や虫などへの興味でした。
幾年か過ぎ、様々な困難-—日本では想像できぬ対立、異なる文化や風習、身の危険、時には日本側の無理解に遭遇し、幾度か現地を引き上げることを考えぬでもありませんでした。でも自分なきあと、目前のハンセン病患者や、旱魃(かんばつ)にあえぐ人々はどうなるのか、という現実を突きつけられると、どうしても去ることが出来ないのです。無論、なす術(すべ)が全くなければ別ですが、多少の打つ手が残されておれば、まるでな話が生乾きの雑巾(ぞうきん)でも絞るように、対処せざるを得ず、月日が流れていきました。自分の強さではなく、気弱さによってこそ、現地事業が拡大継続しているというのが真相であります。
よくよく考えれば、どこに居ても、思い通りに事が運ぶ人生はありません。予期せぬことが多く、「こんな筈(はず)ではなかった」と思うことの方が普通です。賢治の描くゴーシュは、欠点や美点、醜(みにく)さや気高(けだか)さを併せ持つ普通の人が、いかに与えられた時間を生き抜くか、示唆(しさ)に富んでいます。遭遇するすべての状況が-—古くさい言い回しをすれば-—天から人への問いかけである。それに対する応答の連続が、即(すなわ)ち私たちの人生そのものである。その中で、これだけは人として最低限守るべきものは何か、伝えてくれるような気がします。それゆえ、ゴーシュの姿が自分と重なって仕方ありません。

『私は「セロ弾きのゴーシュ」中村哲が本当に伝えたかったこと』あとがきにかえて

自分には成し遂げられそうにもないことをやっている人を見るとき、それは、自分の理解を超えたものを目にしたときとも言えるかもしれません、人は「なぜ」と思い、理由を求めます。

でも、いろんな文章を読んで、またインタビューされている動画、灌漑に関して探求する姿などを見て、中村医師から受ける印象は、人が求めるような、明確な理由はないのではということです。彼にとっては当たり前すぎて、周りが求めるような「理解を超えるような活動をしている理由」はないのかもしれない、と感じるのです。

上記の中に、宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』の話が出てきます。読んだことはありますか?恥ずかしながら、私は今回初めて読んでみました。まだの方がいらしたら、以下の「青空文庫」で読めます。

そして、改めて考えました。

ゴーシュは下手くそで怒られてばかりだったけれど、セロ弾きであることは諦めなかった。そのことはしっかりと握ったままで、目の前にやってくることに
なんだかんだと対応して、うまくなっていくんだよなぁと。

セロ弾きであることをしっかりと握っていさえいることができたら、「こんなはずじゃないのに」「こんなことをしている場合じゃないのに」という状況が巡り巡って、セロが上達し、セロ弾きとしての自分を実現することにつながる、ということでしょうか。

でも、ゴーシュはセロ弾きであることは、どうして諦めなかったのでしょう。あぁ自分には才能がない、とセロを置いてしまっていたら、話は全然違います。

ゴーシュは、息をするかのように、そうすることが当たり前であるように、セロ弾きであること意外に考えられなかったから?セロが上達すること以外に、周りが見えていなかったから?

ゴーシュに「なぜあなたはセロを弾いているの?」と聞くと、どんな答えが返ってくるのでしょう?

そういえば、有名な登山家が「なぜエベレストに登るのか?」と聞かれ「そこに山があるから(Because it's there.)」と答えた、という話もありますね。

ゴーシュもそう聞かれたら「だって弾きたいから、うまくなりたいから」と、なぜそんなことを聞かれるのか分からないといった、戸惑うような表情を見せる気がします。

やろうとすること、やりたいと思うこと自体に他人が納得するような、明確な理由なんていらない。

ときには、自分自身を納得させるための理由もいらない。
なぜ自分がこれをやりたいのか分からない、そんな状態でもいいじゃないか、やりたいのなら。

そんなふうに思うのです。あなたはどうでしょうか?

(文責:森本)

【残席2】1/31(火)20時〜答えのない対話会『私の導かれる先〜中村哲医師の生き様から学ぶ』

音声配信でも少し対話をしています。

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