やりたいことに、理由はいらない
さて、前回からの続きです。
中村医師のやっていることを考えると「到底私にはできそうにない」という気持ちとともに「なぜ、そんなふうに活動ができるのだろうか?」と多くの人が思うようです。
私も例外ではありません。その気持ちが強いからでしょうか、以下の最初の記事
にも書きましたが、そういう部分がよく目に留まります。
それで、ふと思うのです。自分がやりたいと思う以上に、他人が納得するための明確な理由って必要なのでしょうか?
自分には成し遂げられそうにもないことをやっている人を見るとき、それは、自分の理解を超えたものを目にしたときとも言えるかもしれません、人は「なぜ」と思い、理由を求めます。
でも、いろんな文章を読んで、またインタビューされている動画、灌漑に関して探求する姿などを見て、中村医師から受ける印象は、人が求めるような、明確な理由はないのではということです。彼にとっては当たり前すぎて、周りが求めるような「理解を超えるような活動をしている理由」はないのかもしれない、と感じるのです。
上記の中に、宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』の話が出てきます。読んだことはありますか?恥ずかしながら、私は今回初めて読んでみました。まだの方がいらしたら、以下の「青空文庫」で読めます。
そして、改めて考えました。
ゴーシュは下手くそで怒られてばかりだったけれど、セロ弾きであることは諦めなかった。そのことはしっかりと握ったままで、目の前にやってくることに
なんだかんだと対応して、うまくなっていくんだよなぁと。
セロ弾きであることをしっかりと握っていさえいることができたら、「こんなはずじゃないのに」「こんなことをしている場合じゃないのに」という状況が巡り巡って、セロが上達し、セロ弾きとしての自分を実現することにつながる、ということでしょうか。
でも、ゴーシュはセロ弾きであることは、どうして諦めなかったのでしょう。あぁ自分には才能がない、とセロを置いてしまっていたら、話は全然違います。
ゴーシュは、息をするかのように、そうすることが当たり前であるように、セロ弾きであること意外に考えられなかったから?セロが上達すること以外に、周りが見えていなかったから?
ゴーシュに「なぜあなたはセロを弾いているの?」と聞くと、どんな答えが返ってくるのでしょう?
そういえば、有名な登山家が「なぜエベレストに登るのか?」と聞かれ「そこに山があるから(Because it's there.)」と答えた、という話もありますね。
ゴーシュもそう聞かれたら「だって弾きたいから、うまくなりたいから」と、なぜそんなことを聞かれるのか分からないといった、戸惑うような表情を見せる気がします。
やろうとすること、やりたいと思うこと自体に他人が納得するような、明確な理由なんていらない。
ときには、自分自身を納得させるための理由もいらない。
なぜ自分がこれをやりたいのか分からない、そんな状態でもいいじゃないか、やりたいのなら。
そんなふうに思うのです。あなたはどうでしょうか?
(文責:森本)
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