世界観で変わる、正義と悪の境界線

ミルグラム実験をご存知でしょうか。

アメリカで行われた、「閉鎖的な環境において、その場の権威者の命令に従う人間の心理---どこまで残虐になれるかということ---を調べた」ものです。

被験者には、体罰が学習に与える効果を調べる実験など伝えられました。被験者は先生役として、生徒役(実は役者)が間違えるたびに電気ショックを与えるよう指示されます(生徒役は電気ショックを受けたかのように演じているだけで、実際にはショックを受けていません)。実験室には白衣の男性が「権威者」然として同席し、どんなに生徒役が苦しんでいても、実験を続行するよう指示します。すると62.5%の人が「指示通り」に電圧を最大レベルまで上げ、何人かの被験者は、生徒役がもはや声を発していない(ひょっとすると死んでいるかもしれないという状況)にもかかわらず、電気ショックを与え続けたのです。
 この実験で分かったことは、ごく普通の人も、一定の条件下では、権威者の命令に服従し、善悪の自己判断を超えて、かなり残虐なことをやってのけるということです。

『悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える』187ページ

この実験は、国を変えて、設定を変えて、いくつか行われましたが、もっと高い割合になったり、実験を中止せざるを得なくなるほど状況にのめり込んで緊迫したりしたそうです。

▼ 私が悪に傾く可能性

あなたの行為が悪に傾く可能性はどれくらいあると思いますか?

そう聞かれたら、多くの人が、自分は悪いことなどしないと言うと思います。権威者に指示されたって、自分は電気ショックを与えたりしない!
と思う人も多いんじゃないかな、と思います。

もしかしたら、この文章を読んで下さる方には、やりかねないかも…と思われる方もいらっしゃるかもしれません。私も正直、雰囲気に流されてしまう可能性があることを恐れます…。

ミルグラム実験などでポイントだと思うことは、「ごく普通の人も、一定の条件下では、権威者の命令に服従し、善悪の自己判断を超えて、かなり残虐なことをやってのける」という可能性です。

この「ごく普通の人も」というところが恐ろしい。その人にも、日常の生活の中で善悪の判断があったはず。だけれど、それをやすやすと飛び越えて、かなり残虐なこともできるようになってしまう。それも、単純な条件が揃うだけで。

自分の中の正義のための結果、悪い行為をしてしまう可能性があるのなら、「悪と正義の境界線」ってどこなんだろう?と思うのです。

いや、中には、権威者の指示に従ったのだから、私は悪を実行していない、
という人もいるかもしれない・・・。正義を実行したに過ぎない、という人もいるかもしれない・・・。

ますます、「悪と正義の境界線」は曖昧です。

▼ 世界情勢の観方

先日、2つのニュースを目にしました。

一つは、とある旅館がロシア人とベラルーシ人の宿泊を断る旨をホームページに掲載したというもの。旅館業法に抵触する恐れがあると勧告を受け、掲載は削除しました。ロシアの侵攻に対して「抗議の意思を示したかった」という思いだったそうです。

もう一つは、恵比寿駅の案内表示にロシア語を表記していたのですが、その表記に対して利用客から、表記を疑問視する声や「不快だ」という声が相次いだため、表記を隠しました。さらに、表記を隠したことに批判が届き、結局、もとに戻したそうです。

これらの行動が正しいかどうか、私の中では思うことがあるとしても、ここではこれらが正しいかどうかを議論し、行為をジャッジしたいのではありません。

ロシアの侵攻はよくない、武力行使は間違っている。それは確信しているのですが、一方で、だからといって、安直に「ロシアだけが悪い、ロシアのすべてが嫌い、ロシア国民を攻撃しよう」では、戦争を仕掛けた側の立場と何が違うのだろう?同じじゃないか、と思うのです。

平和を願う人が、平和のために、と戦いを挑み、戦いに身を置くような、そんな矛盾を感じるのです。

「悪か正義か」「善か悪か」「敵か味方か」そんなふうに世界を二分することに、単純に二つに分けてしまうことに何の意味があるのでしょう。

・・・と、そう言いながら、単純に二分する考えは良くない!という考え自体も、二分する考えvs二分しない考え、の2つに分けて、対立させてしまっている…という矛盾です。

だからこそ、私たちは、いろんな情報を知る、いろんな観方を知ることが大事なんだと思うのです。

なので、4月の対話会は、2部構成にすることにしました!1部は、これまでの通り、正義や悪についての対話。そして2部は・・・長くなったので、続きはまた。

(おすすめ書籍)

(文責:森本)


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