あのこは貴族
この映画、なぜ一章、二章、三章……と章立てにして作ったのでしょうか。その構成いらなかったなー。
たぶんストーリーの都合なんですよ。序盤に華子と美紀の接点があまりにもなさすぎるから、華子の章と美紀の章に分けたんだと思います。読んでいないので知りませんが、たぶん原作がそういう構成なんじゃないでしょうか。
だから序盤、水原希子が全然出てこないのが気になって仕方なかったです。チラシ見て出演しているのは分かっていたので。良い役っぽいのに何で?って思っていました。第一章が終わり、ようやく理由がわかりました。
でも普通、映画って章に分けないんですよね。分けている作品もなくはないですけど、少ないです。それには当然、理由があって、基本的に映画というメディアに章立ての構成は合わないんです。
もちろん他のメディアだとこの構成が効果的な場合もあります。例えば本は、必ずしも一気読みするとは限らないから章で区切る構成が生きるんです。テレビも連続ドラマは週に1話ずつに分けて放送されるので、章に分かれているようなものですね。1話の中にもCMが挟まれるので、その前後で章に分けることもできます。
ところが映画はスクリーンの前に釘づけにされるので、少しでも観客の気持ちを途切れさせない構成をとるべきです。しかし章で分割されると観客の気持ちも途切れてしまいます。
ただ、この構成をとった気持ちは理解できます。この作品のテーマは、『東京生まれのお嬢様と地方から出てきた庶民の女性とでは、同じ東京でも見ている景色が違う』というものです。前者の代表が華子で後者の代表が美紀という構図になっています。
東京出身者×地方出身者 = 富裕層×一般層 = 華子×美紀
ってことですね。華子と美紀を対比させたい。だから華子の章と美紀の章を分けて対比させたら良いんじゃないかって思うのは自然なことです。
でも残念ながら、表現ってメディアに依存するんですよ。描きたい内容は同じでも、映画と本のようにメディアが違うなら描き方を変えるのが正解です。
章立ては映画には合わないので、章に分けずに描く方法を考えるべきだったのではないでしょうか。
ところで、映画館から出る時、同じ映画を見ていた女性が「門脇麦と水原希子、逆じゃない?」と話しているのが聞こえてきました。
美紀は富山出身の庶民という設定ですが、確かに水原希子の容姿やイメージとは合わないです。いくら慶應大学中退後はキャバクラで働き、現在はキャリアウーマンだといっても、富山の小さな町の出身と言われると「ウソだぁ〜」と思わざるをえません。
もっと納得感のあるキャスティングはあったんじゃないかと思います。
こういう違和感は極力なくした方が良いですね。
あと『あのこは貴族』っていうタイトルはどうも僕の感覚だとコメディって感じがしてしまいます。この作品の原作は同名小説とのことですが、マンガの影響でしょうかね?
何か世の中のコンテンツがだんだん幼くなっていってる気がするんですよね。それとも僕の感覚が古いだけなのかなぁ。
製作年 2021年
製作国 日本
配給 東京テアトル、バンダイナムコアーツ
上映時間 124分
スタッフ
監督 岨手由貴子
原作 山内マリコ
脚本 岨手由貴子
プロデューサー 西ヶ谷寿一 西川朝子 宮本綾
撮影 佐々木靖之
照明 後閑健太
録音 近藤崇生
美術 安宅紀史
編集 堀善介
音楽 渡邊琢磨
キャスト
榛原華子 門脇麦
時岡美紀 水原希子
青木幸一郎 高良健吾
相良逸子 石橋静河
平田里英 山下リオ