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『御上先生』の「バカの壁」の芝居について。
いや~ドラマ『御上先生』面白いですよね~。
まず脚本が素晴らしい。すごく綿密にリサーチされた様々が「設定」として紹介されるだけでなく、ちゃんと物語の「おもしろ」に結実している。
そして芝居がいい。
松坂桃李がすごく「抑えた演技」を表現力豊かに演じている。
見事。そうなんだよね、抑えちゃダメなのだよ。「その人物なりに豊かに表現する」ってことなのだよねー☆
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「官僚目線」で演じる。
松坂桃李さんは御上先生の「感情」「内情」を、ほぼ無表情か?ってくらい超控えめに演じてます。
それは彼の役が、視聴者の感情移入を必要としない構造で脚本に書かれているからで、(感情移入は吉岡里帆さん演じる是枝先生や生徒たちが「視聴者が乗る船」となって物語を進行してくれている。)なので松坂桃李は感情移入のことを気にせずに思い切り「官僚」に振り切って演じることができる。
視聴者の「お茶の間目線」での官僚のイメージを演じるのではなく、その逆。
「官僚目線」でもって物語内で発生する人間模様を見て瑞々しく反応しているのです。
袋小路の日本のシステムを変えるには官僚になるべきだと思って官僚になって、でもまだ若いので上からいいように扱われ、いわれなき罪の責任を取らされて官僚派遣で高校に飛ばされて教師になった、そんな人生を送ってきた男の「価値観」「人生観」で瑞々しく反応しているのです。
だから視聴者は「あ~官僚ってこんな感じなのね」とまるで本物の官僚に出会ったみたいにリアルに感じるのです。
ボクは「演者自身の個性を演じるのがタレント」で、「脚本上の人物をまるで実在するみたいに演じるのが俳優」の仕事だと思っているので、松坂桃李さんはこの作品でまた大きく跳ねたなあ、と思って観てます。
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松坂桃李さんは、官僚を「バカの壁」の向こう側に立って演じている。
このドラマ『御上先生』の凄いところ、そのひとつに「バカの壁」が徹底的に描かれている!ていうのがあります。
「バカの壁」とは解剖学者の養老孟子先生の造語で、
例えばあるコミュニティで暮らしている人間が、他のコミュニティの人間が自分と違う考え方や感じ方をしていることに納得できず、短絡的に「こいつバカだな」と結論づけてしまう現象のことです。
壁のこっちと向こうでお互いにお互いのことを「バカだ」と思ってしまうのが面白いところで、この相互不理解が現代の「人種差別」や「ジェンダー差別」「格差問題の悪化」「分断」「戦争」という深刻な問題の根本なのではないかと思っています。(詳しくは養老先生の「バカの壁」を。この本は俳優必読ですよ😊)
よくあるのが俳優が「俳優視点」で脚本上の「自分とは違うコミュニティの人物」を演じてしまう間違いです。
たとえば俳優は政治家をバカとして演じてしまったり、金持ちをバカとして演じてしまったり、貧乏人をバカとして演じてしまったり、サラリーマンやOLをバカとして演じてしまったりする。
映画『シン・ゴジラ』で唯一残念なポイントはw、総理大臣や政治家たちがバカとして演じられていて、その下で働いている人間が過剰に有能な正義の人として描かれている点です・・・話題が逸れましたね(笑)。
こういう差別的な人物造形は20世紀にはよく見られたんですが、2010年代あたりから欧米では「多様性の時代」が始まり、例えば米ドラマの『メディア王〜華麗なる一族〜』が完全な「金持ち視点」で演じられたり、同じく米ドラマ『ベター・コール・ソウル』が様々な「弁護士視点」で演じられたり、当事者感覚で演じられるドラマ・映画がちらほら出始め、
今では俳優が「バカの壁」のこっちからあちらの人間を演じるのではなく、俳優自身が「バカの壁」のあっち側に立ってみて、そこからこっちを見た視点で演じるというスタンスの映画やドラマが欧米では爆発的に増えています。
この「バカの壁の向こうで演じる芝居」は日本の、とくにドラマではなかなか見られなかったんですが、『御上先生』でついに日本でもその演技を見られるようになった!といった印象です。
『御上先生』の官僚や政治家、理事長や先生たちの描写も見事に「あちら側」から描かれていて素晴らしいのですが、このドラマで一番凄いのは生徒たちの演技なんですよね。
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「コミュニティ」と「解像度」。
このドラマは御上先生のクラスの生徒29人の生活環境が詳細に設定されていて、過酷なオーディションで役を勝ち取った若い俳優たちはイキイキとそれぞれの生徒を演じています。
エリート高校のエリート予備軍の生徒たち。それだけでも立派なコミュニティ分けなんですが、このドラマはさらに生徒たちを詳細にコミュニティ分けしていきます。
親が政治家の家の子と、親が官僚の家の子と、親が自営業の家の子と、親が教師の家の子と、親がジャーナリストの家の子・・・どれも違った「価値観」「人生観」の家庭で育ち、その影響を大きく受けながら育っています。
なので例えば同じ教室で起きた同じ出来事を見ても、それぞれの生徒のその状況に相対した時の「感じかた」「ショックを受けるポイント」が違ってくるんです。 これをそれぞれの生徒たちが見事に演じ分けているんです。
学園ドラマにおいてクラスの生徒たちを、明るい・暗い・優しい・自己中・落ち着きがない・大人っぽい・おっちょこちょい等の「性格」で演じ分けたり、スポーツが得意・理数系が得意・絵が得意・歴史マニア等の「得意技」などのスペックで描き分けることが多かった。
それをこの『御上先生』では育った環境からくる「感じかた・認識の解像度の違い」で演じ分けているんですよね。
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「性格」や「スペック」ではなく「感じかた」で演じる。
生徒役の若い俳優さんたちのインタビューを読むと、たとえば東雲温役の上坂樹里さんはこう語っています。
【ふとしたときに全体を俯瞰して、その場の空気感を味わって「東雲だったらこういう空気感に対してどう思うだろう?」みたいなことをよく考えています。
たとえば「この空気感だったらこういう行動をするんじゃないか」みたいな。そういうことを日々感じながら、どんどん更新していっています。】
また千木良遙役の髙石あかりさんはこう語っています。
【千木良遥は周りにいる人々の感情や物事にすごく敏感で。なので彼女が何か言葉を聞いたときの体の反応・・・たとえば鳥肌が立つとか、を今まで以上に感じていますし、10代の子たちが初めて立ち向かう議題に対する恐怖心というのはこんなにも強いものなのか、と感じながらお芝居しています。】
どちらも演じる役の人物の、環境や状況の変化によって変わる「感じかた」にクローズアップしていますよね。そしてその「感じかた」はその人物の育ってきた環境(コミュニティ)に於いての常識である「価値観」「人生観」に大きく影響されているのです。
いや~ニュータイプが出て来たなあ、というのが僕の正直な感想です。
かつては人物を演じる時に俳優は「どう表現するか」「どう見えるか」にクローズアップして考えてアウトプットを工夫するのが当たり前でした。
それが『御上先生』の若い俳優たちはその真逆で、自分が演じる人物が「なにを感じるか」というインプットにクローズアップして演じているのですから。
ただ本人たちにとってリアルな芝居をしたら、おそらく本人たちも気付かないまま欧米の最新式の芝居を演じてしまっているのではないか。
なので『御上先生』の教室シーンは、生徒たちが一言二言の台詞をワーッと回してゆくようなのが多いのですが、同じ状況に於ける生徒たちの反応が次々と抜いて撮影され、これがひとりひとり反応が全然違っていて、またその状況に対する理解度・解像度が全く違っていることがハッキリと演じられています。
そして生徒同士の言い争いが起きている時は、つまり生徒と生徒の間に「バカの壁」が発生している状態で、その状態のままどんなに話し合っても分かり合うことはありません。 そこに御上先生が現れて、それぞれが自分の解像度が低い部分について考えて、解像度を上げてゆくように促します。
そして「バカの壁」がゆっくりと消えてゆく・・・という芝居が展開するのです。
これって今まさに我々が生きている世界にとって一番必要なことが描かれているのでは?とボクは感じるのです。
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てなところで字数が尽きました。
『御上先生』の演技について喋り出すと止まらなくなっちゃうんですよねーw。 ボク的にはまだまだ全然書き足りないので、次回も『御上先生』の演技について書いてゆけたらと思ってます。また次回も読んでいただけると嬉しいです。
てゆーかドラマ『御上先生』、面白いのでぜひ見てください。
俳優さんは演技の「今」が見れるので、とくに必見ですよ!
小林でび <でびノート☆彡>