覇を競い合う男たちの無残――『地面師たち』@ネットフリックス
前半の詐欺案件までは面白く見た。後半で詐欺の相手が巨大化すると、それに見合ったドラマの広がりがなく失速。
犯罪チームを演じる役者の面々がいかにも怪しげで、キャラ立ちしている。なのに、その個々の役柄の背景説明がまったくない。一切の犯罪動機は主役の辻本拓海(綾野剛)の人生の悲劇と復讐劇に収斂されてしまう。海外ドラマではあり得ない。
豊川悦司の色気と魅力だけで持たせている作品だ。このハリソン山中にしても、来歴を匂わすぐらいすべきだったのではないか?どうしてこんな怪物ができあがったのか?これでは単なる残忍なサイコパスだ。
とりわけ捜査二課の下村辰夫を演じるリリー・フランキーを死に追いやってからのドラマの失速ぶりが著しい。ハリソンが異常な犯罪者として一方の極にいるとしたら、下村は凡人ではあるが社会常識の体現者で、その対極にある。両者の対決こそが本作の軸になるべきだったのに、後者を早々と退場させてしまった。
ハリソンをあまりに超絶した犯罪者として描いてしまったために、作品からリアリティが失われた。敵・味方お構いなしに殺しすぎだよ。もう用なしになった石洋ハウスの青柳さん(山本耕史)を何で敢えて殺す必要があったのか?長生きさせ、屈辱と恥辱の極みを生き抜かせて頂きたかった。
そもそも用が済んだからと言って、自分のチームをほとんど皆殺しにするのでは、次の仕事ができなくなるだろう。そんな常軌を逸したサイコパスの元に優秀な人材が集まるわけがない。どんな稼業であれ、最低限の信用は必要だ。ま、実際のところ彼がもっぱら頼っているのは、カネで雇ったと思われる東南アジアの暗殺部隊である。
ハリソン本人の口を通して語らせていたように、たかがウィスキー1本が数千万円もする道理はなく、品川の土地にしても100億円もする謂われはない。それらの値段は人間の頭の中、観念の中にしか実は存在していない。その正体を暴くことにハリソンは異常な執念を燃やしている。
ただ日本は、というか東京はいかにも狭すぎる。地面師たちはドキドキするような大仕事を仕掛けているつもりかもしれないが、結局のところ狭隘な土地の取り合いをしているにすぎない。石洋ハウス内の社長派と会長派の権力争いにしても、当人たちは大まじめでも外から見ればコップの中の争いにすぎない。
これは日本独特の権力争いの構図だと言えなくもない。限られた椅子と場所の取り合いをしているにすぎず、いかにも辛気くさく、貧乏くさい。そんな有り様に対する批判的な眼差しがあれば、ドラマのなかにユーモアが生まれたと思うのだが、本作には笑えるようなシーンがほとんどない。シリアス一本鎗だ。
それは作り手の頭の中に、こうした椅子取り競争の世界を相対化する視座がないからだと思う。そのためにハリソン山中を超人化してしまい、海外ドラマでは当たり前の、登場人物たちの凡庸なる履歴を丁寧に描くという発想に至らなかったのだ。
「地面師」という素材自体は興味深い。カネと土地に狂奔する、今の日本の惨めな姿を浮き彫りにするようなところがある。ハリソン山中も得がたいキャラである。にもかかわらず、それらの扱いはいかにもこれまでの日本ドラマの限界を超えていない。海外では不発に終わったというのも納得できる。
一言でいえば、作り手の「世界観」が矮小すぎる。おそらく脚本家はハリソンに過剰な自己投影をして、その眼から他の登場人物たちを見ている。かれら小物たちが辿ってきたであろう細々とした人生に目が行き届かない。だから簡単に殺してしまうのだ。
脚本が主役に身を仮託して、脇役を丁寧に描き分けられない。これは日本のドラマの病弊とも言うべき弱点である。せっかく黒澤明『七人の侍』というチーム物の古典的名作があるのだ、くり返し見て少しは学べ!
こうした男たちがチーム、というより「派閥」を組んで覇を競い合う姿は、犯罪者ばかりではなく政治、経済、芸術、学問と日本のあらゆる業界で見られる。日本は小さな島国なので、その狭隘さが誰の目にもあからさまだが、同様のことはどこの国でもあるだろう。否応なく世界は1つになりつつある。熾烈な競争が世界中の国家や富裕層のあいだで行なわれている。
そんなホモ・ソーシャルな世界から降りる、というところにしか倫理は存在しない。その意味で作中の定年間際の刑事・下村や、綾野剛演じる辻本の描き方に工夫が欲しかった。これでは結局、強欲の魔物ハリソンの勝利にしかならない。
かつて小林秀雄は名著『近代絵画』において、近代の画家たちが出世争いに狂奔する世俗の競争から降り、自らの階級から出て芸術に身を投じた倫理性を褒め称えていた。この著作の背骨はそんな洞察にあったと思う。そこには「降りよ、そして堕落せよ」と説いた坂口安吾と共通するものがある。かつての日本人の文人が抱懐していた覚悟である。
「降りること」の倫理性を説く者、そんな理念を抱懐する者が誰もいなくなった。むしろそれこそが現代の表現者における悪い意味での「堕落」だと言わざるを得ない。