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愛はセラピー

愛がセラピーであり、

愛以外にセラピーは存在しない。

愛があなたを完全にし、

世界があなたを歓迎していることを感じさせ、

あなたを存在の一部にしてくれるからだ。

         ーーOsho, 黄金の華の秘密:No.18

昨日偶然聴いたOsho講話です。彼は続けてこう言います。

もしあなたが祈ることができれば、他のセラピーは必要ない。祈りがなくなったからこそ、世の中にセラピー(治療)が必要なのだ。祈りが生きていて、流れていて、人々が大きな感謝の気持ちで踊り、神を讃美して歌を歌い、ただ存在していること、ここにいること、生きていることにただ感謝しているとき、人間は決してセラピーを必要としなかった。愛と喜びの涙があふれ、心の中に歌があるとき、セラピーは必要ない。セラピーは現代のニーズではあるが、祈りの代わりにはならない。

精神分析は宗教の代用品としてはお粗末なものだ、実に貧しい。しかし、最高のものが得られない時、二番手、三番手、あるいは利用可能なものに落ち着くものだ。寺院は腐り、教会には政治が入り込んで、宗教は司祭によって汚染された。人間は孤独になり、誰からも顧みられることなく、自分を支えてくれる人もいなくなった。何世紀にも渡ってあった地面が消滅し、人は奈落の底に落ちた。根こそぎにされたと感じている。精神分析は、その代用品として、あなたに根を張り、しがみつくための土台を少しだけ与えてくれるだろう。しかし、それは祈りとは比べものにならない。


ああ、そうだなあ、って思います。

一言一句が、心に深く沁み入って、多くの人に気づいてほしいと思いました。

あなた自身に向き合い、何が起きているにせよ、そこにある事実・真実をそのまま受け入れることができると、癒しは自然に起きます。

そしてそのために必要な「勇気」そして「愛」というエッセンスは、いつもわたしたちを見守ってくれています。つまりわたしたちはその中にいる、ということですね。

”エゴ”や”スーパーエゴ”と呼ぶ、わたしたちの人格の一部は、心理的な問題にばかりフォーカスしているので、愛や勇気を信じていません。むしろ、それらはどこか遠くにあるものだと思い込んでいます。おまけにエゴは何よりも変わることを恐れているんですね。

あなたが祈りに満ちた空間を作ることができれば、そこを訪れるすべての人にそのエッセンスが感じられる。彼らははじめて、未知の、何か超越されたエネルギーを感じるだろう。未知の世界を再び感じることができるとき、その人の人生には意義や意味が生じ始める。超越的なエッセンスに少しでも触れることができれば、その人の人生は二度と同じものにならない。超越的なものにほんの少し触れるだけで、小さな窓から光が入って来る。空、雲、星たちが見える。セラピーも使えば良い。でも、ほんとうの助けは祈りから来る。セラピーは祈りへの足がかりとして使うことだ。


ところが、<私>が全身全霊で、黄金の華の秘密に耳を傾けている間、エゴやスーパーエゴは、全く大人しくしていた、というのも事実です。

<私>の意識がどちらに留まろうとするか?

エゴという表層部の、実は薄っぺらい幻想の方か?

それとも<私>の全てが包括されている本質なのか?

そのレッスンを有効にするのが、インクワイアリーという手法なのです。

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