『ペンキ』(1) 人探し,レジェンド探偵の調査ファイル(全5回)
『現役探偵の調査ファイル 七人の奇妙な依頼人』 福田政史:著
【第二話】ペンキ
「マルヒ」とは、「業界用語」で被調査人のことを言う。
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「新田裏(しんでんうら)」と言っても、最近は知らない人が多い。数年前までは信号機にもその名前があったし、われわれの世代には特別な思い出のある地名であった。
現在は「新宿六丁目交差点」という味気ない呼び名になってしまったが、新宿の新田裏は歌舞伎町のコマ劇場から風林会館方面に抜ける歌舞伎花道と、明治通り(環状5号線)がぶつかる交差点で、昭和30年ごろまでこの周辺には、〝青線〟と呼ばれる非公認遊郭があったことで知られる。
行政のご都合主義のせいで、古き良き時代の由緒ある町名がどんどん消えてゆき、無味乾燥に簡素化された住居表示が多くなっても、私は頑固に「新田裏」と、タクシーの運転手に行き先を告げる。
もう十年ほど前のこと。新宿の街にクリスマス商戦のジングルベルが鳴り響く、師走のある日、事務所に低い男の声で電話があった。
ドスのきいた声で「頼みたいことがあるから来てくれるか」と、押し付けるような物言いだった。私が承知すると先方はビルの名前と、Mで始まるカタカナの社名を言った。
後の祭りである。M社は、H会系の最高幹部の一人が経営する金融を生業とする会社で、会長と呼ばれる人物は、その世界では知る人ぞ知る超大物であった。
「組」は、れっきとした縄張りを持ち、資金量の豊富さでも有名だった。
新宿で探偵社を営む私が知らないはずもなく、「何だろう」と訝しく思いながら、恐る恐る訪問したものだった。
明らかにソノ筋とわかる〝社員〟が、
「おー、探偵屋さんか。奥に行って、奥に」
と会長室に案内した。会長室には革張りのソファーに幹部らしき男が二人座り、その向こうにある大きな黒壇の机に眼光の鋭い六十歳ぐらいの男がいる。それが原社長だった。上背があり、がっしりした体格だが、さすがに私を案内した〝社員〟とは違い、風格のようなものが感じられる。
ソファーにいた幹部の一人が、テーブルの上にあった男の顔写真を見せながら言った。
「実はこの男なんだが、うちのカネを六億持ってどっかにずらかりやがってな。若いもんが必死に探したんだけど見つからねえんだ。餅は餅屋っていうから、アンタ、ちょっと探してみてくれねえか。
世の中には度胸のいい奴もいるもので、こんな人を騙して六億円もの大金をせしめ、ある日突然いなくなったらしい。
会長は激怒して子分を集め、四方八方探させたが杳(よう)として行方が知れず、困り果てた組長代行の提案で、わが事務所にお鉢が回って来たらしい。
会長の後ろの壁には『仁義』と墨書した大きな掛け軸が飾ってある。とても断れる雰囲気ではない。
調査は翌日から開始し、六億円持ち逃げした男の居所がわかったのは、それから二週間後だった。
この手の「所在調査」ではちょっとした勘や運が味方することが少なくない。このケースがまさにそうで、男の家族関係を調べて宇都宮に住んでいる実姉の周辺を内偵していた調査員から、「姉が最近、新しく買った車で良く出かける」という報告を聞き、姉の自宅を張り込ませたのが功を奏した。ある日姉は、自宅駐車場から新車で出てくると、一時間ほど走り、奥鬼怒にある貸別荘に入った。姉が帰った後、別荘に近づいて望遠鏡で家の中を覗くと、組事務所で見せられた写真の男がいた。
ちょうどクリスマスイブだった。私の報告書を見た会長は「ふ~ん、さすがだな、やっぱりプロは違うな。たいしたものだ」などと言って、しきりに感心して帯の付いた百万円をポンと投げてよこした。
実を言えば、この仕事を受けるにあたっては着手金ももらっていなかったし、報酬もろくに決めていなかった。もし男を見つけ出しても、「ご苦労さん」の一言で終わるかも知れないと覚悟していただけに、百万円の報酬は嬉しいというより驚いたぐらいだった。
事務所に帰り、カバンからまだ帯を切らない札束を出し、受け付け兼お茶くみ兼電話番兼調査助手兼経理係の恵美子に渡すと、
「え? このお金……どうしたんですか?」
と目を丸くしている。私が平静を装いながら、
「調査費だよ。例の新田裏の親分の」
と言うと、貧乏探偵事務所の経理係は、「クリスマスプレゼントね、これからはサンタを信じよう」などと言いながら、金庫にしまった。
「やくざもあそこまで偉くなると違うもんだ」などと、主管の警察庁が聞いたら、目を剝いて怒るようなことを言いながら、年の瀬を迎えたのを昨日のことのように覚えている。
新田裏の会長からちょこちょこ調査依頼が舞い込むようになったのはそれからだった。調査内容は、組が実質的に経営している飲食店の売り上げをマネージャーが抜いていないか調べてくれ、地上げする土地の所有者を調査してくれと言ったものだが、会長も仕事をキチンとする私のことを気に入ってくれたようだった。