批評への酷評
survofさんの作品は詩に馴染みのない人が読んでも良さがわかりやすいと思うのです。それはつまりカタルシスがあるってこと。「良さがわかりやすい」。それはわかりやすい浄化作用の体感とは違う。言うなれば村上春樹作品を読んだ時に受ける「読後のなんとなくな気分」であり、その気分を喩えるならばカタルシスであるということ。夕狩さんの批評文にはカタルシスは示されていないし、そのなんとなくな「読後の心地よい気分」もない。これは、夕狩さんが今回テーマとされている「現代詩の入口としての批評」に沿っていえば失敗だと思う。詩に馴染みの無い人がなぜに現代詩へ入って行かないのかというと、「難しいから」ではなくて、劣悪な現代詩の作品にウンザリするからではなかろうか。劣悪な現代詩とはその「カタルシスらしきもの」ー「浄化したいんですわたしは」という一般化されたわかりやすさで書かれた作品のことである。夕狩さんの今回の批評にも類似の嫌悪感を受けた。作品文に沿った語句と構造の解説からは劣悪な一般化の腐臭がします。優れた紹介文、解説というのは、感得した説明し難い「カタルシス」を「わかりやすく」ズバリ示すものでなければならない。町山智浩さんが映画を語るように。町山智浩さんを例に出してしまいましたが、夕狩さんがやろうとされている方向性は町山智浩的であり、素晴らしいと思います。
詩なんてこれっぽっちも興味のないあなたに survof/うつつ
追記
更に加えていうと、作品について細部にわたって読解を述べられると作者冥利につきるし嬉しいことである。作者にとっては、である。レギュラー化されていない作家の新刊本を手にするとき、そこには様々なきっかけがある。しかしながら、紹介・解説を通して勧誘をするのであれば、そこに掲げられて然るべきは「なぜ」でなくてはならない。このモバイルフォンによって私たちは世界を変えますと宣言から始まるアップルに負けた日本の家電メーカーみたいに優れた機能説明を全面に出してはならない。夕狩さんの批評は素晴らしい機能の説明でしかない。