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Carmen メリメとゴダール#1



カルメンという名の女を、皆さんは知っているだろうか。
『カルメン』(Carmen)は、19世紀の作家プロスペル・メリメが1845年に発表した小説である。1974年にはオペラ化されていて、そちらのほうが知名度があるのだろう。しかし僕は、オペラを見たことがない。今回は、そんなオペラを見たことはないが小説を読んでいる僕が、『カルメン』を原作として作られた、ゴダール「カルメンという名の女」と原作の二つに関して語っていこうと思う。
※筆者わたくしは文学/映画ともにど素人なので、暴論が飛び出ることもありますが、どうかその点は目をつぶってください。もしくは、コメントで批判をば。

あらすじ

 初めに、簡単なあらすじを紹介しなくてはならない。なぜなら、「カルメンという名の女」は、ひじょーに難解であるからだ。ゴダール作品は後期になっていくにつれて難解さを増していく。本作は、「パッション」と同時期に製作されており、「パッション」と同等のストーリーのつかみづらさを備えている。(この、ストーリーのつかみにくさは良さであり欠点だ。)しかし、「カルメンという名の女」には原作がある。その原作を知っていれば、ある程度はその難解さを軽減できるだろうということだ。
 原作『カルメン』のストーリーはかなり簡潔だ。短編小説であるため、ページ数も少ないし、ぜひ読んでみてほしい。主要な人物は、主人公ドン・ホセ、ヒロイン(といっていいのだろうか)のボヘミア女カルメン、語り手のフランス人学者といった感じだ。物語は、学者がドン・ホセと出会うところから始まり、ホセがカルメンとの出会いそして別れを語っていくといった感じである。(現在、知人に読んだ岩波文庫版を貸していて、手元にないためあやふやなのは許してほしい)舞台はスペイン、作者そして語り手の学者のフランス人から見た異国情緒が、物語の雰囲気を定めている。ホセはもともととある町の衛兵を務めていたが、カルメンに魅入られ、上官を切り殺し、カルメンの後を追い盗賊となる。盗賊を続けるうち、カルメンの伴侶であり盗賊団のボスへの嫉妬に狂い、決闘を申し込み勝利する。しかし、カルメンの心は手に入らない。そうしているうちに、カルメンは闘牛士と恋に落ちる。またしても、ホセは怒り狂う。そしてついには、カルメンを殺してしまうといった具合だ。(後半のほうがけっこーあやふやで申し訳ない)
 はてさて、このストーリーをジャン=リュック・ゴダールはいかにして現代フランスを舞台に落とし込んだのであろうか。
 ホセに当たるのはジャック(ジョセフ)、銀行の警備員である。その銀行にカルメンらが強盗に入ることで、出会いが始まる。盗賊団のボスはそのまま、その犯罪集団のボス、闘牛士は彼らが泊まるホテルのボーイである。
 映画「カルメンという名の女」のあらすじは以下である。
 カルメンとジャックは上記のように銀行で出会う。魅入られたジャックは、カルメンとともに逃亡。情熱的?な数日を過ごしたのちに、逮捕、法廷、釈放、カルメンと再会する。そこから舞台はホテルへ。カルメンと犯罪一派は、実業家とその娘どちらかを誘拐する計画を立てている。そして計画が、グダグダながらも実行されその騒ぎのさなか、ジャックがカルメンを殺して終幕である。
 原作との違いは、物語の期間が推定一月ほどと短いことと、それに伴って、ボスの殺害、闘牛士/ボーイとのいざこざ、カルメンの殺害が立て続けに描かれる点だろう。このテンポの良さが、ジャックの精神的苦悩を視聴者にもよく味合わせてくれる。
 もう一つの筋として、映画作成を主題としたものがある。実業家の誘拐は、映画の撮影に見せかけて行う計画であり。そのために、カルメンの叔父でありゴダール演じる元有名映画監督ジャン叔父さんと掛け合うシーンがある。このような、映画内映画で映画作成の困難さと苦悩を表現する試みは「パッション」でもよく行われている。

本編

さて、本編の内容に入ろう。本作は、原作の良さが十分に引き出されているストーリーもさながら、いかにもゴダールといった表現やカットが多く含まれている。いったい、何から語ればいいものか。

La jolie femme

 カルメン役を務めた、マルーシュカ・デートメルス(Maruschka Detmers)は非常にはまり役だと思う。私は、スペイン人ひいてはボヘミア人がどのような目鼻立ちかはよくわからない。そのうえ、アジア人からしたら西洋人の区別だなんてほとんどつかない。しかし、この女性の何に見せられれてしまったのか、作中の彼女は「カルメン」であった。本作が初演であったものの、その素晴らしい演技が評され、のちに様々な映画、テレビ番組などに起用される。この女性の魅力は何なのだろうか。
 叔父のアパートへジャックとともに逃げ込んだのちの場面は、彼女の魅力が存分に発揮される。窓から差し込む陽の光と、波の音を背景に彼女の横顔が映る。凛とした眉、ぽったりとした鼻、丸く優しい輪郭、どこか愁いを帯びてこちらを試すような眼、夕闇とその日差しによってもはや輪郭しか見て取れない場面でも、なめらかな肉体の線、そして陽が透けて黄金のように艶めく巻き毛。それらすべてに随伴する、野性的な強さが、彼女を美しく見せるのだ。
 野性的な強さ、作品を通して彼女が纏うオーラとして基本描かれるが、セリフとしても一部飛び出している。「人生でなら…女が男とできることを人に見せたい。(中略)女が男にするのよ。」
 これらの二人の情熱的な一晩は、本作で唯一、ジャックと彼女の心がつながった場面といえるだろうか。はたして、いえるのだろうか。原作においても物語前半で、ホセはカルメンと愛し合う。愛し合うのであるが、物語すべてを知ったのちには、果たして、カルメンは彼を愛していたのか?と思わざるを得ない。これは、映画においても同じだ。果たして、カルメンは彼を愛していたのか?「はっきり言ったはず。私があなたを愛したら、あなたは終わり。」このセリフがすべてであろう。
 この一連のシーンで私が最も好きなのは、もちろん、ジャックがカルメンを脱がせる場面だ。背景音楽の四重奏も、ジョセフの高ぶりも最高潮に達する。そして、四重奏から二人に再びカメラが切り替わり、一瞬の静寂。「やってよ、バカね。」カルメンの一言を皮切りに、ジョセフは強引に彼女の服を脱がせるも、「優しく」と彼女は怒り、ジョセフの髪をつかむ。かなり強くつかまれているようで、非常に痛そうだ。そしてジョセフは「なぜ女が存在するのか」などと言い放つ。
 背景の波の音、四重奏、二人の様子が実にマッチしていて美しい。そして、ジョセフがなんだか滑稽で仕方がない。本作で、最も美しい(「最も」にするか悩ましい)場面である。ちなみにこの「なぜ女が存在するのか」というセリフは、のちにカルメンの「なぜ男が存在するのか」というセリフでジョセフに返ってくる。それもまたみじめなことだ。

Station-service

 二人が銀行での衝撃的な出会いの後、初めに訪れた場所はガソリンスタンドであった。逃走、ガソリンスタンド、連想するのは一つ『気狂いピエロ』しかないだろう。『気狂いピエロ』は、同監督の作品で、代表作『勝手にしやがれ』『軽蔑』『気狂いピエロ』と並ぶ、ゴダール三部作の一つである。この作品でも、逃避行の始まりにガソリンスタンドへ立ち寄る。ゴダール好きなら、この作品との関連性を見出して少しうれしくなるだろう。(私が喜んでいるだけかもしれないですが)逃避行の始まりに、ガソリンスタンドがある。これはいったい何なのか。思うに、都市部から郊外への区切りなのだろう。私は、てっきりこのまま逃避行のストーリーが続くものだと思っていたから、この直後に、二人で野原を歩いていくカットが収まるのではないか?と予想したが、見事に外れてしまった。(「勝手にしやがれ」、「気狂いピエロ」ではどちらも物語の本筋に入る前に、主人公/たちが野原を進むのだ)まあ、ガソリンスタンドでの二人の様子を見れば、彼らが仲良く逃亡激ができるようには見えないものだ。

Le miroir

 鏡の演出がある。実験的な演出なのだろうか。
 わかりやすいのがガソリンスタンドの場面。ジャムを万引きしてトイレで食べる男が、鏡に向き合った状態で写される。ゴダールはヌーベルバーグの申し子であり、後期作品には視聴覚的遊びが多くみられる。その中でも、音声と映像の不一致が多い。音声では主要人物が会話をしているが、映像は全く関係のない道路や、海、工場などを流す。今回の場面はその一つといえるだろう。男がジャムを食べる裏では、カルメンが逃げないようにネクタイで互いに腕をつないだジョセフとが、男子トイレに入り、小便器でカルメンが用を足している。男はジャムを食べながらそれを盗み見したりしなかったり。そんなシュールな場面で、盗み見という卑劣で滑稽な行いをする男の様子は、鏡に映ることで、前からも後ろからもカメラに収められているのだ。
 もう一つは、ジャン叔父さんと犯罪集団のボスが映画の打ち合わせをする場面だ。舞台はカフェ。叔父さんとボスが同じテーブルについて、叔父の秘書は離れたカメラの外の席に着き、そこから様子をうかがう。秘書は叔父の左隣の鏡に映っている。秘書は常に叔父、ゴダール監督の言葉をメモに取り記録している。その行動に意味があるかはわからないが、常にメモを取り、「記録しますか?」と尋ねる様子は面白い。こういった視聴覚的な面白さは、物語の本筋と離れている要素だ。しかし、映さないのはもったいない。そこで、ボスと監督の話とは無関係であるが、画面に映したいという目的と鏡のその場にいないものの姿を映す性質がマッチしたのだろう。
 カルメンがボーイを誘いシャワールームに入り、誘われたボーイを押しのけ、ジャックが強引にカルメンを襲う場面も大きな鏡を通して映されている。ここは単に、直接取るためには空間が狭すぎたため、もしくは”なんか面白いからそうした”のかもしれない。
 余談も余談、それる話だが、鏡の演出は名作映画クエンティン・タランティーノ「パルプ・フィクション」でも登場する。ぜひ視聴して、「これか~」だなんて思ってほしい。

#1締めくくり

 非常に長々と書いてしまいましたが#1はこれでいったん終わりとします。#2はとっとと本を返してもらって、原作との関係性を見ていきたいな~だなんて思います。原作とは言っても日本語訳されていますから十分に読み解けるかは自信ないです。もし時間があったら、オペラもみてみようかな~なんて。ちなみに、オペラは原作とは大きく内容が変更されているようです。(確か授業でそんなことを言っていた)いつか、原作、オペラ、映画で絡めて書けたらいいんですけどね~。多分無理。#2では、同時期の作品「パッション」との関係性、カルメンの魅力に迫る「裸体」、カルメンと叔父の言葉の示すものとは、の三本かな~、って感じです。今回は前回の、マリヴォーのものと違って、なるべく口語っぽく書いてみました。読みやすいか読みにくいか…難しいですね。それでは、ここまで読んでくださりありがとうございました。次回も楽しみにしていただけたら幸いです。


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