古代より続く火山信仰の里🌋阿蘇市歴史さんぽ④ 【麓坊中】
こんにちは。今回は阿蘇市散策レポートの4回目です。今回は阿蘇山上の古坊中が戦国時代島津勢の兵火によって焼失したのち、加藤清正によって黒川村(現在の阿蘇駅周辺)に再興された麓坊中の散策レポートになります。
(※豊臣秀吉の島津征伐•九州平定後、阿蘇を含む肥後北部には加藤清正が入国しました。)
麓坊中には古坊中時代と同じ36坊52庵が再興され、江戸時代を通して繁栄しました。現在、麓坊中の各坊は明治の神仏分離で廃寺となりありませんが、西巌殿寺が単独の寺院として存続しています。かつて沢山の坊舎が建ち並んでいた通りには、門跡や坊跡の標木が設置されていて、往時の宗教集落の風情を残す美しい散策路でしたよ✨我ながらいい写真がたくさん撮れたので、皆さまも一緒に散策している気分で楽しんで頂けましたら幸いです♪(5500字)
中世〜戦国時代に栄えた古坊中については以下の記事で取り上げていますので、未読の方は是非↓
散策ルート紹介
今回の散策ルートを青字で示しています↓ 画像は熊本県阿蘇地域振興局の散策マップを拝借。
今回は阿蘇駅からスタートし、かつては坊が建ち並んでいた行者通りと仲小路通りを歩いて西巌殿寺へ向かいます。途中、歴史あるイチョウの大木『長善坊の公孫樹』に立ち寄ります。因みに散策路と並行して阿蘇登山道である県道111線が通っているのが分かりますが、昔も参詣者や僧侶・修験者達はこの道を歩いて阿蘇山上と麓坊中を行き来したようです💡
それでは早速、行ってみましょう🏃♀️
阿蘇駅
ますは散策のスタート地点、阿蘇駅を軽くご紹介します。阿蘇駅は阿蘇観光の拠点になっていて、阿蘇駅から阿蘇山上ターミナルまでのバスが出ているもよう。(乗ったことないので詳細はお調べ下さい。)阿蘇駅周辺には道の駅阿蘇やホテル、温泉施設などが建ち並び、いつも賑やかです。道の駅前に広い駐車場がありますので、今回はそちらに駐車させていただきました。そして、阿蘇駅前には『ONE PIECE 熊本復興プロジェクト』の一環としてウソップ像が建てられていますので忘れずに写真を撮りましょう♪↓
江戸時代にはこの阿蘇駅付近にも坊が建ち並んでいて、昭和の中頃までは阿蘇駅は坊中駅と呼ばれていたそうです💡
それでは西巌殿寺に向かって進みます👟↓
阿蘇駅から西巌殿寺へと続く道は、途中国道57号線で分断されていて、国道を渡った先が「行者通り」と名付けられた通りとなっています。
行者通り
風情のある通りですよね〜💫背後の阿蘇五岳と一体となった風景も壮観です。(この日はちょっとガスってますが。)石畳の道のスタート地点には、通り名が彫られたこんな可愛らしい石が嵌め込まれていますよ💓↓
はじめに、通り名の由来を西巌殿寺の案内板から引用させていただきます。↓
ここで少し、江戸時代の麓坊中(総称は西巌殿寺)の組織構成について解説しておきたいと思います💡麓坊中には衆徒、行者、山伏と呼ばれる修行者達がいて、それぞれ以下のような人たちでした。
衆徒: 天台宗の僧侶
行者: 僧侶と修験者の中間(衆徒と山伏の中間)
的立場の人々
山伏: 修験者
(※明確な定義は書かれてなかったので若干間違っていたらすみません🙏)それぞれの関係性は、衆徒が立場的には一番強く、行者は衆徒に従い、山伏は衆徒か行者どちらかの配下に属していました。
衆徒•行者の居住する坊舎を「坊」と呼び、「坊」は僧侶自身をも表しました。(例→武蔵坊弁慶)
各坊は上•中•下の坊に格付けされて熊本藩から寺領地を与えられていました。また、山伏の住居は「庵」と呼び、所属する「坊」から敷地の提供を受けていました。各「坊」「庵」にはだいたい1人〜3人が住んでいて、内訳は住職•弟子•隠居でした。(衆徒•行者•山伏は非妻帯です。)
さらに、各「坊」には支配•家来と呼ばれる苗字を持ち帯刀の雇われ人達もいて、彼らは妻子持ちだったので、坊中には女性も住んでいたということですね💡坊中の総人口的には修行者よりも家来とその家族の数の方が多かったようです。
では早速行者通りを歩いてみましょう!今まで昔の武家屋敷や城下町は歩いたことありますが、こんな壮大な宗教集落遺跡を歩くのは初めてなのでワクワクします💓通りを歩き始めると早速、左手に坊跡の標木を見つけましたよ💡↓
麓坊中の各通りにはこのような標木があちこちに立っていて、坊についてのひとことメモが書いてあって楽しいです。(倒れそうになっていたり、文字が消えかかっているものもありますが💧)
「坊の権利は職と呼ばれ次々と譲られ相続されていた。」とありますが、住職が隠居や死亡後なかなか後任が決まらなくて無住の坊もあったようで、その場合は「看坊」といって他の坊が坊舎を管理したそうです。
それではしばし、風情ある行者通りの写真をお楽しみくださいませ♪ ↓
仲小路通り
こちらの通りも趣きがありますね〜✨道の先にはすでに西巌殿寺の門が小さく見えています。散策マップなどの坊跡を見渡すと、この仲小路通りから西巌殿寺周辺にかけては衆徒方の寺格の高い坊が建ち並んでいたようですね🧐
通りを進むとほどなく、正面に西巌殿寺の門が見えてくるのですが、ここから一つ中に入った通りに加藤清正にまつわるイチョウの大木があるようなので、ちょっと寄り道してみましょう♪
長善坊の公孫樹
細い路地を抜けると真正面に銀杏の大樹が現れましたよ❣️立派ですよね〜✨これは是非、紅葉の時期にまた訪れたいですね。木の根元に案内板がありますので例によって引用して説明とします💡
護摩炉に舞う紙吹雪、そして朝鮮の加藤清正のもとに飛んでいく矢。映像が目に浮かぶような鮮やかで臨場感溢れる伝説ですよね。さすがに後年になって創作された話だと思いますが、こんな物語ができるほど加藤清正と長善坊には深い繋がりがあったようなのです。
加藤清正が慶長4年(1599)に出した阿蘇坊中の復興を命ずる判物(花押を署して下達した文書)が『西巌殿寺文書』として今に残っているのですが、その判物は長善坊宛に出されています。また、阿蘇に残る文書に書かれた由来には、長善坊契雅は古坊中が焼失して阿蘇一山が没落した後、ただ一人山上に留まって山上の神仏を守っていた衆徒で、加藤清正が彼に戦勝祈願を依頼したとあるそうです。そのような2人の縁からこの伝説が生まれたんでしょうね💡
そして長善坊の公孫樹の横には、長善坊跡の標木も立っています↓ このイチョウの木は長善坊の敷地内に植えられていたのでしょうね。
この標木には、以下の一口メモが書かれています。↓
ちょっと注釈をいれますと、加藤家は清正の死後、子息忠広の代で改易となりまして、その後は細川家が肥後の領主となりました。そして初代藩主•細川忠利の時に天草•島原の乱は起きています。細川さんも、加藤清正時代の長善坊の霊験にあやかりたいと思って長善坊に祈祷を依頼したんじゃないかな🤔
それではそろそろ仲小路通りに戻って散策を続けましょう!西巌殿寺に近い仲小路通り沿いには、衆徒方の寺格の高い坊が集まっているイメージです。こちらは上の坊だった万福院跡。↓
標木が斜めっていて一口メモが読めないですが、何とかネットでフルバージョンの写真を見つけましたので、以下に引用します。↓
例によって補足説明いたしますと、阿蘇山では中世以来、乙護法信仰が盛んで、万福院が担当寺として毎年乙護法講を取り行っていたそうです。
そのためか、万福院の敷地内には乙護法堂が建っていて、中には古い木造の乙護法(高僧に仕える童子。不動明王の垂迹とも考えられていた)の像が数体安置されていました。↓
そして西巌殿寺の門の前には、中の坊だった浄光院跡。今は敷地跡の一角に圓通庵という観音堂がたっています。↓
この圓通庵という名称、「庵」と付いているからには山伏に関係あるのかなと気になったんですが、後日調べたところやっぱりそうでした。圓通庵は、明治になって還俗した元成道坊の下山伏だった方が隠居後、子安観音や生目八幡等を祀って読誦する毎日を送っていたそうたんですが、その祈祷所跡を移築したものなんだそうです。
ところで浄光院跡の素敵な石垣は、見た感じ阿蘇火山の溶岩由来の岩石じゃないかと思います。各地を散策する際、地元の特徴ある岩石で作られた石垣や石段などを観察するのも楽しみの一つです🪨そして石垣の手前には大きな岩のモニュメントみたいのがありますが、これはよく見ると街灯のランプシェードになっています!↓
このような石を加工したランプシェードが通り沿いにはたくさん設置されていて、石や穴の形も様々で楽しいのですが、散策中このランプシェードをめぐって楽しい事件がありました笑
詳細は次項〈おまけ〉でご確認ください😆
さて、それではいよいよ西巌殿寺にお邪魔したいと思いますが、すでに5000字を超える長文となっておりますので続きは次回。現西巌殿寺は明治になって麓坊中の衆頂•学頭坊跡に誕生した寺院になります。西巌殿寺境内は、阿蘇坊中の興亡の歴史に想いが巡る静かで美しい場所でしたよ。それでは次回の阿蘇歴史さんぽも宜しくお願いします❣️
〈おまけ〉 行者通りの猫たち
以下、キャットタワーと化した石のランプシェード上で繰り広げられる行者通りの猫たちの攻防を四コマ漫画風に紹介いたします🤣
最後までお読み頂き、ありがとうございました🎵
【参考文献•WEBサイト】
•熊本県教育委員会 熊本県文化財調査報告書
第49集 古坊中 1980年
•阿蘇町史 第1巻 通史編 2004年
•阿蘇山西巌殿寺HP
•熊本県総合博物館ネットワーク・ポータルサイト
•熊本県公式観光サイト