中世阿蘇氏の本拠地🪶 山都町歴史さんぽ③ 【五老ヶ滝•通潤酒造】
こんにちは。今回は山都町散策レポートの3回目です。今回は1回目でご紹介した通潤橋からすぐ川下にあり、是非通潤橋と合わせて訪れて頂きたい五老ヶ滝と、山都町散策の休憩にお薦めの通潤酒造さんのオシャレなカフェです。今回は滝見学&カフェレポにはなりますが、歴史さんぽシリーズらしくしっかり歴史話も入っておりますので是非読んでいってください❣️(4800字)
※記事中では便宜上、山都町を旧町名である矢部と表現することがありますのでご了承下さい。
五老ヶ滝
五老ヶ滝へは、五老ヶ滝兼通潤橋南側駐車場からすぐ降りられます。
ここで例によって補足説明致します💡滝をご覧じた朝廷の勅使とは、戦国期の天文13年(1544)に「浜の館」を訪れた烏丸光康さんのことです。彼がはるばる矢部の浜の館を訪れた表向きの目的は、時の帝・後奈良天皇宸筆の般若心経を阿蘇神社に納めることと、時の阿蘇大宮司•惟豊さんへの叙位でした。
Rose注釈)後奈良天皇は国家の平安を願って諸国一の宮24ヶ国に般若心経を奉納しているようで、阿蘇社に奉納されたものを含め7か国分が現存しているそうです。後奈良天皇は慈悲深く清廉な帝だったようですね。
この時惟豊さんは従三位の叙位と、「松風」という茶入れを賜ったそうです。この「松風」はそれより阿蘇家の家宝とされましたが、天正期の当主•阿蘇惟光さんが島津氏に追われて目丸の山中に落ち延びた際に、阿蘇家をかくまった山崎家に御礼として贈られ、今もなお山崎家の家宝として伝わっているそうです。(確か参考文献に実物の写真が載ってたような。)
因みに勅使下向の裏の目的というか、真の目的は惟豊さんに御所修理の献金をさせることだったようです。というのも、当時は下剋上の世の中で朝廷もそのあおりを受けて衰微し、即位の大典や御所の修理もできない有様でした。幕府も衰えていて費用を出せなかったため、地方の有力な大名に献金を促すべく、勅使が各地に赴いたということらしいです💡惟豊さんもこの時献金を約束し、献金一万疋を無事届けた後に従二位に昇格しました。二位といえば左右大臣と同じ位で、今川氏や大友氏が従四位下だったことと比べても破格の叙位だったようです。(献金も他大名と比べて多くはなかった)矢部町史には、破格の叙位の最大の理由は、阿蘇家が天皇家、出雲の千家と並ぶ旧家だったので家柄を重視したのだろうと書いてありましたが、私は阿蘇惟豊という人の人間力、外交手腕も作用したんじゃないかなぁと想像しますね🤔勅使の烏丸さんが従二位獲得に尽力してくれたのも、惟豊さんの人柄や矢部でのもてなしに心が動かされたからじゃないかと思いますけど。なんてったって無敗の軍師•甲斐宗運が生涯忠誠を誓ったほどの人物ですから✨ともあれ惟豊さんは従二位の叙位によって一躍時の人となり、名将•甲斐宗運の活躍とともに阿蘇氏はこの時期に全盛期を迎えたのでした。
それでは滝の見学に戻りたいと思います!まずは案内板のある展望所から見た滝の写真です。↓
私も今回初めて見ましたが美しい滝ですね〜✨これは惟豊さんが朝廷の使者に見せたいと思うのも納得です🍃また、江戸時代に狩りでこの地を訪れた熊本藩第8代藩主•細川斉茲公がその規模や滝壺の美しさなどに感動し、絵師たちに写生させた絵図も残っているんですよ💡あと、私はこの滝を一目見て高千穂峡の滝に似てる!と思いました。双方ともに阿蘇火山による溶岩層が侵食された美しい柱状節理がみられます。(山都町と宮崎県の高千穂は阿蘇カルデラの南方に位置し、距離も30キロしか離れておらず、近いです。)美しい滝の姿が見られるベストスポットは他にもありますので、先に進みましょう🏃♀️
更に降ると滝壺へ下りる道と、案内板にあった吊り橋へ向かう道の分岐点に出ます。↓
まずは滝壺に降りて、荘厳な滝の姿を下から眺めたいと思います!表示には滝壺まで170mとありますが、旧な階段を結構降る感覚です。途中滑りやすい箇所もありましたので、歩きやすい靴で明るい時間帯に行かれることをお勧めします。しかし、やはり滝壺からの眺めは迫力満点で、一見の価値ありですよ✨↓
滝の水しぶきが霧状に舞っていて気持ちいい🍃そして近くからだと柱状節理(柱状に侵食された岸壁)がはっきり見えますね〜♪ マイナスイオンをたっぷり浴びたところで、先ほどの分岐点に戻って次は吊り橋へと向かいます👟
結構立派な吊り橋だなと思ってスタスタ歩いていくと、やはりそこは吊り橋でした。ユラユラと揺れてちょっと怖い感覚を久しぶりに味わいましたよ😨でも、案内板にあった通り、吊り橋から眺める滝壺の美しさは格別でした〜✨↓
この時は15時過ぎだったので滝が影になってますけど、滝が陽の光を浴びる時間帯はなお綺麗でしょうね✨(何時がベストなのか分かりませんが)因みに吊り橋から先は、通潤橋まで遊歩道が続いてるみたいなので、朝の散歩とか最高に気持ちよさそうですね🍃
少し疲れた頃合いなので、私は元来た道を戻ってお気に入りのカフェに向かうこととしま〜す☕️(この後本当に行きました。)
通潤酒造
通潤酒造さんは山都町の市街地「浜町」の中心にある老舗酒屋です。まずは簡単に浜町についての説明から☝️浜町は日向往環の街道筋にあたり、江戸時代には宿場町として栄えました。熊本藩内のみならず日向臼杵藩や豊後竹田の岡藩との交易も盛んで、矢部では岡藩の藩札が通用し、大阪商人との交易もあるなど、藩境を越えた広域経済圏となっていました。浜町には町奉行も置かれ、菊池の隈府に次ぐ賑わいをみせていたそうですよ💡
通潤酒造さんの前身はそんな浜町の大商家でした。通潤酒造のHPによると、江戸時代中期の1770(明和7)年に廻船問屋を営んでいた備前屋清九郎さんが重い年貢に困窮する集落を救おうと造り酒屋を創業したのが通潤酒造のはじまりだそうです。私は下戸なのでいつもカフェのみ利用させて頂いていますが、もちろんオシャレなお酒もたくさん販売されていてお土産にもピッタリですよ🍶
因みにカフェは、通潤橋の放水の直後(13時過ぎ)は人が多いので、その時間帯を避けて行くのがいいかもしれません。それでは早速、行ってみましょう💓
(※以下写真は、これまで幾度となく訪れた際にちょこちょこ撮っていた写真を繋ぎ合わせたものになりますので、季節感はバラバラになります💦)
寛政蔵は江戸時代中期の寛政年間に創建された熊本県内で最も古い蔵だそうです。2016年の熊本地震で被災しましたが、復興を機にリノベーションされたそうです。(通潤酒造HPより)
それでは早速中に入ってみましょう❣️
さて、通潤酒造さんには歴史深い「御成の間」という座敷が保存されている屋敷があります。(見学したことはないので確証はありませんが、他の方のblogを見るとおそらく↑の写真の庭の先正面に写っている屋敷と思われます。御成の間は普段一般公開はされていませんが、通潤酒造のHPに写真が載っていますのでご興味がある方は検索してみて下さい。)
「御成の間」は、歴代の肥後藩主細川公がこの地に狩りに来られたときにお泊まりになった屋敷です。1877(明治10)年の西南の役では敗走する薩摩軍が浜町に集結した際、西郷隆盛がこの座敷で軍議を開いたと伝えられています。
例によってここですこし、歴史解説を挟みます💡
戦に敗れた薩摩軍は4月20日、矢部方面に撤退し、西郷さん達は翌21日に備前屋(現通潤酒造)御成の間にて軍議を開きました。軍議の結果、人吉城にこもることを決定し、翌22日に人吉に向けて浜町を出発しました。矢部町史によると、矢部は4月に入ってから薩摩軍の通過滞在や、物資の輸送路として大混雑したそうです。地元では負傷兵を泊めた時の様子や、軍夫に駆り出された村人が1週間帰らず心配したことなどが言い伝えられているそうです。
薩摩軍が矢部に滞在した際に隊の再編成と戦争犠牲者の招魂祭が行われたという男成神社の記事はこちら↓
男成神社の記事では薩摩軍の隊の再編成が行われたと書いたのですが、矢部町史によると男成神社に宿営し隊の再編成を行ったのは、薩摩軍に呼応した熊本隊を中心とする部隊だったようです🙇♀️
この時の様子について詳しく書かれた文献•ウェブサイトが少ないので詳しいことはわかりませんが。因みに男成神社は岩尾城•浜の館から5キロほど東に位置する、阿蘇大宮司家が代々元服の儀式を行っていたと伝わる神社です。
それでは最後に、寛政蔵のおいしいカフェメニューの写真を掲載して本記事を終わりたいと思います😋🍽️
寛政蔵カフェではこれらの他にも、通潤酒造のアルコールメニューや多彩なフレーバーの甘酒とお菓子のセットなどがあります。メニューもおしゃれだし、なにせ雰囲気がいいので、私は地元の友人に限らず帰省した友人や熊本に遊びに来てくれた友人を連れて来たりしています。しとしと雨の日はテラス側の窓が全開にされて、雨のお庭を眺めながらの喫茶も癒されるんですよ☔️(日本家屋ってほんと雨が似合いますよね)皆様も山都町を訪れた際は是非立ち寄ってみてください❤️
おわりに
山都町歴史さんぽは次回、九州の南北朝シリーズ•山都町編(仮題)で最終回の予定です。次回は南北朝時代に活躍した阿蘇大宮司•恵良(阿蘇)惟澄さんの居城伝承地•山都町入佐地区の散策レポートになります。惟澄さんが多々良浜の戦いで使用したと伝わる旧国宝の大太刀•蛍丸の儚くも美しい伝承とともに南北朝時代の阿蘇氏の全体像を俯瞰した記事にしたいと思っていますので、公開までには時間がかかる見込みです。その間は写真を撮り溜めて記事にできていない別テーマの記事をいくつかUPする予定です。
便宜上山都町歴史さんぽシリーズは次回で終わりますが、山都町には他にも人形浄瑠璃の伝統を引き継ぐ清和文楽館やパワースポットとして有名な幣立神宮など、魅力的な史跡がたくさんありますので、将来行く機会があればまた記事にできればと思います。
次回は菊池市の龍にまつわるスポットの散策記事をUPする予定です。次回もよろしくお願いします❣️
【参考文献•Webサイト】
•矢部町史編さん委員会 矢部町史 昭和58年
•通潤酒造ホームページ
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