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古代より続く火山信仰の里🌋阿蘇市歴史さんぽ⑥ 【国造神社】

こんにちは。今回は阿蘇市散策レポートの6回目です。今回は阿蘇神社の主祭神•健磐龍命(たけいわたつのみこと)の御子で初代阿蘇国造•速瓶玉命(はやみかたまのみこと)を祀る国造神社の散策レポートです。国造神社は阿蘇カルデラの北の端に位置する阿蘇市一の宮町の手野集落に鎮座します。

神社名にある国造(くにのみやつこ)とは古代における世襲の地方官のことで、速瓶玉命は古代に阿蘇谷を開発した阿蘇君(あそのきみ)の祖とされています。その阿蘇君がその後戦国時代まで領主として君臨する阿蘇氏(阿蘇大宮司家)の祖先と考えられていますので、国造神社は阿蘇大宮司の祖先を祀る神社ということになりますね💡因みに国造神社は後の記事でご紹介予定の肥後一の宮•阿蘇神社よりも歴史が古いのですが(十世紀の『延喜式神名帳』にも記載がある)、古代の雰囲気を残す豊かな森に囲まれた国造神社は、癒し効果抜群の神社さんでしたよ🍃(3600字)

今回の散策地はここ!

なお、散策した日は去年の7月になりますので、写真の季節感が今とは異なりますが、深緑と神社の織りなす風景を楽しんで頂けましたら幸いです🍃
それでは、手野集落の入り口から散策スタートです🚙

名水の里・手野

手野集落の入り口には、「ようこそ手野集落へ」と書かれたポールや水車、そして集落の散策マップが描かれた案内板が立っています。可愛くて温かくてほっこりしますね🌱以下、案内板の集落の説明書を引用させていただきます。↓

    国造神社の神々と手野の名水
外輪山の裾野に位置する手野集落は美しい景色と湧水が溢れる名水の里です。由緒ある国造神社には樹齢二千年以上もあった手野の大杉が保存され、鯰伝説で有名な鯰宮や、石室に入ることのできる上御倉古墳などがあり、阿蘇の歴史を感じることができます。集落のあちこちから湧き出る湧水を楽しみながらゆっくり、のんびり、さるいてください。

Rose注釈)さるくとは九州の方言で歩くの意味です。

いいですね〜🍃「手野の大杉」と「鯰宮」そして「上御倉古墳」はバッチリしっかり見学してきましたので後ほどレポートしますね!因みに手野を含む阿蘇谷東部の平野一帯は、古代の「条里制」に基づいて古くから開拓が進められた土地で、古墳の主は開拓を指揮した有力者の墓と考えられています。そして案内板にある通り、国造神社一帯は湧水が豊富なことも、ここが初めの開拓地に選ばれた所以だと考えられます。

さて、手野集落入り口から数十メートルほど進むと国造神社への上り口が見えます。入るとすぐ十分な広さの駐車場がありますのでそちらに駐車させて頂き、早速国造神社にお参りします👟

国造神社

鬱蒼とした森に囲まれた雰囲気のある神社さんです✨
杉の大木が立ち並ぶ参道を進むと右手に案内板が見えてきます。例によって神社の説明部分を以下に引用しますね!

阿蘇の開拓に尽力したとされる速瓶玉命をはじめ四神を祀っている神社です。阿蘇神社から約6Km北に位置しているため、北宮とも呼ばれています。境内神社の一つ、鯰社は阿蘇カルデラに湖があった時代、湖の主である大鯰を、阿蘇開拓の祖である健磐龍命の湖水干拓ののち祀ったものとされ、カルデラ湖の形成•消滅の歴史と深いつながりがある伝説が残されています。

因みに別の案内板によると、祭神の四神とは、速瓶玉命のほかは雨宮媛命(速瓶玉命の御后)高橋神、火宮神だそうです。鯰社については後ほどご紹介しますね。それでは先に進みまーす💁

境内の前に流れる清らかな宮園川に架る宮の橋を渡って
手水舎で手と口を清めます。
古くて趣のある石段を登ると
二の鳥居
鳥居をくぐり石段を登った先には立派な御社殿✨
白木造りの質実剛健で清々しい拝殿内部🍃
幕には阿蘇神社と同じ違い鷹の紋

この美しい社殿は、肥後熊本藩主•細川綱利により寛文13年(1673)に造営されたものだそうで、市指定有形文化財となっています。「素敵な時間をありがとうございます」と懇ろにお参りします🙏

そして、社殿のすぐ隣に鎮座する小さなお社が、案内板に登場する鯰社(鯰宮)になります↓

分かりにくいですが画面中央の階段を上がった先の社です
以下に内容引用します。

          鯰社
 健磐龍命が阿蘇の火口湖を立野の火口瀬を蹴破り干拓された時、大鯰が出現、阿蘇谷半分にかけて横たわっていた。ミコトが鯰に向かって「多くの人々を住まわせようとして骨折っているが、お前がそこに居ては仕事もできぬ」と言われると、鯰は頭をたれてミコトに別れを告げるように去っていったと伝えられている。
 ミコトはその湖の精であった鯰の霊を祀ると同時に鯰を捕ることをかたく禁じられた。
 祭神が鯰の霊ということで、皮膚病ことにナマズハダに霊験があり、今でも全快すると鯰の絵を描いて神社に奉納する風習が残っている。

鯰社は、阿蘇神社の主祭神•健磐龍命(国造神社主祭神•速瓶玉命の父君ですね)の阿蘇開拓神話に登場する大鯰を祀ったお社ですが、ここで少し鯰伝説について深掘りしたいと思います💡

阿蘇さんぽ①の記事でも詳述しましたが、阿蘇市は阿蘇カルデラ(地下のマグマが大量に噴出したことにより山体が陥没してできた地形)の北側(阿蘇谷)に位置しています。大昔はカルデラ内は湖(カルデラ湖)だったのですが、神話では健磐龍命が外輪山(カルデラの縁)の一部を蹴破って阿蘇谷の湖水を排水し、農地として干拓したとされています。地質学的には断層運動によって外輪山に切れ目ができ、湖水が排水されたと考えられています。

画像は阿蘇火山博物館の模型の写真を編集したもの

そして健磐龍命が湖水を排水した時、湖底から現れたのが鯰社の祭神である大鯰だったのですが、阿蘇谷開拓の障害になった大鯰を健磐龍命が排除したというのが鯰伝説のストーリーとなります。

さてこの大鯰は何を暗喩しているのかということが気になりますが、私が参考にした資料には2つの興味深い説がありました。ひとつは、古くから鯰は地震と関連付けられてきたことから、カルデラ湖消滅の原因となった断層活動を表しているというもの。あとひとつは、大鯰はより古い土着の神を象徴するものというものです。そう考えるとこの鯰伝説、示唆に富んだとても興味深い伝説ですよね🤔

因みにこの大鯰の行く末については、①流れ出した②涸死した③退治された などいくつかのバージョンがあるのですが、阿蘇市の西50Km地点に位置する上益城郡嘉島町には鯰という地名が残っていて、この大鯰が流れ着いた場所とされています。なお、嘉島町には井寺古墳という県内有数の装飾古墳があるのですが(国指定史跡)、その古墳の主は、健磐龍命によって阿蘇谷から追われた鯰に象徴される豪族だったのかもしれない、なんて妄想しました。

いずれにしろ、阿蘇谷開拓の犠牲になった大鯰の霊を供養するために祀ったのがこの鯰社になりまして、国造神社では毎年3月28日に鯰社祭が執り行われているそうです。因みに今でも手野の住人は鯰をいっさい口にしないならわしで、阿蘇家と旧社家の人々も鯰は食べないそうです。(私も生まれてこのかた鯰を食べたことはありませんが)鯰社の説明が長くなってしまいましたが、次に進みます🏃‍♀️

社殿の東側にそそり立つ杉の大木の門を抜けると
中央に土俵のある広い空間に出ます。

こちらには樹齢2000年以上もあった「手野の大杉」の一部が保存されています。手野の大杉は速瓶玉命お手植えの神杉と伝わり、県下でも最大級の巨木だったそうです。元々男杉と女杉の2株がありましたが、男杉は江戸時代の文政年間に落雷により枯れてしまい、女杉は平成3年の台風19号により主幹が折れ、枯死してしまったそう。そのため現在は一部が保存展示されています。↓

元国指定天然記念物の女杉の幹。
写っている人と比較すると大きさがわかる。

樹齢2000年もの神杉、生きて堂々とそそり立っている姿を見てみたかったです🌲落雷や台風で倒れてしまって本当に残念ですが、どんなに立派な巨木も最後は自然の力によって土に還るのが自然のサイクルなのでしょうね。

それではこれから国造神社の背後に隣接する上御倉・下御倉古墳へと向かいたいと思いますが、長くなったので続きは次回。上御倉・下御倉古墳は6世紀に作られた横穴式石室をもつ2基の円墳で阿蘇国造夫妻の墓と伝わっています。上御倉古墳はなんと玄室内部に入れるようになっていて、私も玄室初体験してきました!そこでちょっとしたビックリ不思議体験をしたので、その時のドキドキ感が伝わるようにレポートしたいと思います😁次回も宜しくお願いします❣️

上益城郡嘉島町鯰にある嘉島郵便局の壁に描かれた
可愛らしい鯰のイラスト

最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

【参考文献】
•阿蘇惟之編『阿蘇神社』学生社 2007年
•阿蘇町史 第1巻 通史編 2004年

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