中世阿蘇氏の本拠地🪶 山都町歴史さんぽ① 【国宝 通潤橋】
こんにちは。山都町歴史さんぽに関しては阿蘇氏関連の史跡を中心に取り上げたいと思っていますが、山都町のシンボル的史跡で、去年国宝指定された『通潤橋』をスキップするわけにはいきませんので、第一回目は通潤橋を取り上げることにしました。通潤橋は江戸時代末の嘉永7年(1854年)、地元の惣庄屋・布田保之助(ふたやすのすけ)によって造られた近世最大級の石造アーチ水路橋です。布田保之助は山都町のみならず、熊本県の偉人として県内では広く知られています。私も小学生の頃社会科見学で史料館とともに訪れて「保之助さん、すげぇ!」と子供ながらに衝撃を受けた記憶がありましたが、果たして昨年国宝指定され、通潤橋と保之助さんはやっぱり全国レベルなんだと納得しました💡今回はGWの放水日を狙って通潤橋を訪れた際のレポートになります。(6000字)
散策ルート紹介
今回の散策ルートを赤字で示しています。↓
今回は五老ヶ滝側の駐車場に停めて通潤橋を渡り→橋の下に降る斜面で放水時間まで待機し→放水を写真に収め→布田保之助の銅像前でフィニッシュです。ちなみに画像下の物産館で橋上観覧証(500円)を購入し、下から橋に上がることも可能です。本来はそちらがメインルートのような気もしますが、今回はゴールデンウィークで観光客が多くて物産館前の駐車場に停めることが出来なかったので、その先の五老ヶ滝側の🅿️に停めて逆のルートから歩きました。それでは早速、行ってみましょう🏃♀️
国宝 通潤橋
そして通潤橋の麓に通潤橋の概要を説明した案内板がありましたので、例によってこちらを引用させて頂き、追加解説を加えて通潤橋と布田保之助さんの説明とさせて頂きます。↓
通潤橋架橋の目的は「白糸台地に水を送ること」でしたが、白糸台地は案内板のあるこちら側の台地になります。近くに五老ケ滝があることでもわかる通り、白糸台地は深い谷に囲まれた高台で、遥か下方の谷川から水を引くことはできません。また、火山灰土のため雨水は抜けやすく農業用水の確保が困難でした。そこで北側対岸から水路橋をかけて上流の川から白糸台地に水を引こう!というのが通潤橋プロジェクトでした。
プロジェクトリーダーは地域の総庄屋•布田保之助さん。46歳の時、最も貧村だった白糸台地の諸村のために水路橋を架け、白糸台地に水を引くという長年の夢に着手します。しかし、深く幅の広い渓谷に頑丈な石橋を架け、しかもその上に多量の水の水圧に耐えうる水道を通すことは容易なことではありません。他に類を見ない大水路橋の建造は困難を極めました。
まず、現場の高さは30m以上ありましたが、当時の石橋の技術では頑張って20mが限界でした。足りない高さは「吹上樋(ふきあげとい)」の仕組みを使って通水する計画が立てられました。吹上樋とは、水の取入口と吹上口の高低差により、通水管を流れる水が吹上口から勢いよく噴き上がる仕組みです。保之助さんは肥後国内はもちろん、日向や薩摩にも視察に出かけて各地の石橋や吹上樋を調査研究しましたが、石橋も吹上樋も通潤橋程の規模のものはありません。そのため保之助さんはトライアンドエラーで何度も失敗しながら通水実験を繰り返したそうです。そして当時最大級の石橋に必要な強度については、熊本藩の許可を得て石工長に熊本城の石垣の築き方を調査研究させたそうです。城の石垣って結構重要機密なはずで藩もよく許可したなぁと思うわけですが、それも保之助さんの努力と正確さがあったからこそだと思われます。保之助さんが藩庁に架橋の許可を申請した時、藩は慎重な態度で臨み、役人に現地検分を行わせた上、種々の懸念について保之助さんに質問したそうです。それに対し保之助さんは綿密な研究調査の資料を添えて明快な答弁書を提出したそうです。その結果藩の許可がおり、通潤橋建設費の半分は官費から出金されることとなりました。通潤橋建設は官民あげての一大プロジェクトだったわけですね💡そんな壮大な通潤橋の構造図がこちら↓
橋から水の取入口までの高さが7mなのに対して、吹上口までの高さは5mで、2mの高低差があるのが分かりますね💡これにより、低い方の白糸台地に水が吹き上がる仕組みだそうです。
さて案内板のすぐ近く、通潤橋のふもとには「御小屋(おこや)」と呼ばれる通潤橋建設時の監督小屋があります。その入り口横に通水管1ピースが展示?してあったので、そちらで通水管の説明をしたいと思います。
通水管は見ての通り石で出来ていて、これを連結させて真ん中の穴に水を流すわけですね。保之助さんは最初、当時の吹上樋の主流であった木製の管で実験していたそうなんですが、水圧のために壊れてダメだったことから石製の通水管を使用することにしました。しかし今度は石の繋ぎ目から水が漏れるという問題が発生。そのため、石の繋ぎ目に調査研究を重ねた独自の漆喰を詰めることで隙間を塞ぐ方法が取られました。上の写真で石管の接合面に二重の溝が彫られているのがわかりますよね。例によって分かりやすいように仕組みを下に図で示します。↓
水漏れを防ぐため漆喰を穴に入れて突き固める作業は各1万回だそうです😵地道な作業ですよね。この通水管は長く地元の方々でもメンテナンスしやすいように考えられていて、熊本地震の際や老朽化で通水管の補修が必要になった際も、保之助さんのレシピを参考にして昔ながらの漆喰を使って補修されています。さらに橋上には通水管が3本通っているのですが、修理のための便と水圧の緩衝部となるよう一列につき4個、計12個のピースは松の丸太製のものがはめ込まれているそうです💡
自分が死んでからも長年修繕して使い続けられるようにという心配りは技術者の鑑ですよね〜✨誰でもメンテナンス可能なシンプルさって(個人的には)大事だと思います。
さて解説が長くなってしまいましたが、散策を先に進めましょう🏃♀️(説明が足りて無い部分は散策中に挿入します☝️)まずは白糸台地側にある吹上口から↓
写真では分かりにくいですが、橋の上面まで結構な傾斜がありますよ。ここを水が登ってくるって考えたら凄いですよね✨吹上げという割には水の勢いは穏やかに見えたのですが、別の説明ではこの仕組みのことを「連通管の原理」と言っていて、それは管で繋がった異なる容器の一方に水を入れると水の圧力によって片方の容器では水を入れた容器の水面の高さまで水面が上昇する、というものだそうです。そう考えると、勢いに任せて上から水を流して反対側に到達させるだけの原理ではなさそうですね。(私は理系脳ではないのでイメージだけで話していて詳しい事はよくわからないですが💦)それでも後ほどお見せする放水の様子からは、通水管には相当な水圧がかかっていることが分かるわけですけれども。
橋を渡る前に是非ご紹介したいのが、画像右に見えている石碑です。↓
こちらの記念碑の「通潤橋」の文字は、幕末の志士で保之助さんとも親交の深かった宮部鼎蔵さんによるものです。宮部鼎蔵さんは京都の池田屋で新選組に襲撃された際に自刃して45歳で亡くなられましたが、出身は山都町の隣の御船町であり、山都町でも一時塾を開いて若者たちを教えていたそうです。それでは先に進みます👟
人の足が写っているのが向かって右端の通水管で、画面左に少し写ってるのが中央の通水管です。向かって左端の通水管は写ってませんが、同じように放水口があって、放水時には3つの通水管の栓を同時に抜くんだと思います。放水の瞬間を(怖いので)ここ放水口で立ち会ったわけではないので断言はできませんが💧
さて、橋の中央からの放水は現在山都町の一大観光イベントとなっていますが、元々は通水管内部に溜まった土砂を排出するために定期的に行われるものになります。通潤橋は今も現役で使用されているため、例年5月中旬から7月中旬までの農地灌漑で使われる時期と、冬場の水が凍結する時期は放水は行われません。通潤橋の放水カレンダーは通潤橋公式ホームページで確認できますので、放水を見に行きたい方は事前にチェックの上お出かけくださいね💡
それでは放水時間の午後13:00まで、橋下に降る道の斜面で待機します❣️↓
そしていよいよその瞬間が訪れます。スリー、ツー、ワンのカウントダウンの後、栓が引き抜かれ
放水と同時に沸き起こる「わーっ」という歓声。ゴーっという轟音。霧状に舞う水しぶき。シャッターをきる人々📸通潤橋の放水は小学校の社会科見学以来ですが、やっぱり壮観です〜✨
上流側2個、下流側1個の放水穴は、放水の際の圧力の均衡を考慮して大きさを違えて彫られているそうです。ここらへんになると理系脳を持ち合わせていない私は圧力を均衡させる原理は全くイメージできませんね〜😵
それでは橋の下に降りましょう👟
あとがき
通潤橋は2023年9月に、土木構造物としては全国初の「国宝」に指定されました。通潤橋は現在の土木技術にてらしても一つの難点も見出せない完成度を誇り、2016年の熊本地震を含め度重なる自然災害にも倒壊することなく現在まで継承されています。(勿論部分的な損壊や通水管の老朽化による補修はありました。)約170年たつ今も現役で使われているこの技術的完成度の高さが、国宝指定の決め手となったそうです。
通潤橋は綿密な調査研究と周到な設計計画に基づき、細部に至るまで計算され尽くして構築されたわけですが、工事が完了して初めて通水するという当日、保之助さんは石工さんとともに、もし不成功に終われば責任を取って切腹するつもりで臨んだ、というのは保之助さんの仕事に対する覚悟と責任感を表す美談としてよく言われていることのようです。確かに藩からは多額の資金が出ているし、藩の役人も見に来ているし、地域住民総出で行われた通潤橋建造は官民あげた一大プロジェクトで失敗は許されない事業だったことは分かるのですが、最初私は武士でもないのに切腹の覚悟までしなくても。。と思ったのですが、色々調べていると当時の庄屋さんが責任を取って自害したという話は度々あったようです。同じ山都町の村にはその村の庄屋さんが用水井出開さくの責任を負って自害したとの伝承が残る「腹切り原の碑」があり、また実は保之助さんの父の市平次さんも、保之助さんが10歳の時に地元民の夫役を少しでも軽くしたいと願い出て(いろいろ複雑な事情があったようですが)自害されたようです。保之助さんの話も、当時の社会の封建支配の末端であった中間管理職の庄屋さんたちの苦労が垣間見えるエピソードだと思いました。しかし一方で、通潤橋建築に関しては関係する役人や熊本藩の多大な協力がありました。特に郡代の上妻半右衛門さんは陰に陽に保之助さんを励まし支援していたそうです。藩への取り次ぎがスムーズにいったのも、彼の助力によるところも大きいと思われます。更に、工事に関わった熟練の石工さんたち、そして地域住民達の総出で工事が行われたことも忘れずに記さなければなりません。見事通水が成功した際には、皆が喜び、皆が泣いたそうです。通潤橋が堅牢で美しいのは、この一大事業が稀有なリーダーである保之助さんという核のもとに、藩、役人、関係する村々の庄屋、石工をはじめとする職人、地域住民が身分を越えて協力して築き上げたものだからだと感じました✨
次回の山都町散策②は、通潤橋取入口側の高台に阿蘇氏によって築かれた中世山城•岩尾城跡をレポート予定です。次回も宜しくお願いします❣️
最後までお読み頂き、ありがとうございました😊
【参考文献】
•山都町役場&山都町観光協会発行『心も潤す虹の架け橋 通潤橋』パンフレット冊子
•通潤橋史料館 展示物
•矢部町史編さん委員会 矢部町史 昭和58年
•山都町ホームページ
•通潤橋公式ホームページ
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