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見知らぬ街で迷子になりたいだけ

梅雨が明け、夏に灼かれてだいぶ経つけれど、私の今年の夏が始まった日の話をしたい。日本列島にゲリラ豪雨が来た、7月11日のことだ。


私は昔から、休日になーんにも予定を入れず、ひとりで放浪するのが大好きだった。
〇〇遺跡だとか〇〇旧居跡だとか、古い歴史や地形の名残がある街を目指して、自転車を漕いだり馴染みのない電車に乗ったり、そこそこだけの体力でなんとか歩く。その場所に着いたら、インスタ用に写真を撮ったりもしないし(それはただの道や民家の裏などであまり派手なものではないのだけれど)、何か記録をするわけでもない。ただ説明書きを読んで、昔はこういう風景だったのかな…と当時に想いを馳せて、周りをぶらぶらして帰ってくる、本当にそれだけ。なのにどうしてかこうやって過ごす時間が、うーとうめきたくなるくらい幸せなのだ。
この気持ち、メロディーで言ったら、ロビンソン/スピッツのサビ『大きな力で 空に浮かべたら ルララ 宇宙の風にのる』の時に受ける感じが近いかもしれない。心の中に自由な風がおおきーく吹いてる感じ。
いやどんだけ個人行動好きなんだろうすごい満たされてるじゃん。笑 でも本当なんです。

そんな私が、久しぶりにこの放浪をした。
かろうじて外に出歩けるくらいには日差しの弱まった、まだ豪雨が来ると知らない夕暮れに、スッピンにTシャツ&デニムという簡素ないでたちで目指した場所。

それは、北区の田端だ。
"山手線で存在感の薄い駅NO.1"と"山手線の駅で降りない駅NO.2"の地位を得たらしい、このエリア。
私はそんな結果に、もったいないー!と叫びたいようなこのまま私を癒す穴場でいてほしいような、たのしい気持ちになる。

ここ、ご存知の方もいるかもしれないが、すごい街である。
田端文士芸術家村と呼ばれていて、明治期から多くの文人や芸術家が移り住んだ場所なのだ。私は美術はあまりわからないので、関心のある人で言えば文人ばかり、芥川龍之介、室生犀星、萩原朔太郎、堀辰雄、林芙美子などだろうか。彼らのエピソードを調べたりしていると、この街での交流のことがふいに出てきたりする。

〈行きたい場所手帳〉(そういうものを作っているのだ)にずっとこの地名を書いていて、私にとっては念願の田端!!だった。


まずはJR田端駅から歩いてすぐのところにある、田端文士村記念館に入る。
涼しくて、とてもしずかな館内。このコミュニティの中ではやっぱり芥川龍之介がもっとも知名度があるからか、彼のことを扱ったコーナーが半分くらいあって、田端にあった彼の家の模型や生前のビデオ放映(お馴染みの晩年の彼がするすると木登りするやつもあった)を見て回る。
模型はとても細かいつくりだった。芥川は木の上に、三人のお子さんたちは軒先や裏庭でのびやかにくつろぐ姿や、沢山の来客がくぐったであろう玄関、二階の本があふれた芥川の書斎など、たった一軒の家が見尽くせないほどだった。

芥川が自死で亡くなった当時の、作家たちからの言葉の展示もあった。著名な人ばかり壁一面に並ぶ中で、一番印象的だったのは室生犀星の言葉だ。
下記、引用する。

我々凡俗の詩人は最早「彼がどうして死んだか」などと念うてはならない。
黙って暗夜に没するその長髪痩身の姿を見て居ればよい。その後姿は何と懐しい限りのものであるか、笑ひも感激もゴオルデンバツトも、鳥の手のやうな手も、半分かけた金歯も、そつくり彼は何時でも思ひ出させるものを待つている……

「芥川龍之介を憶ふ」『文藝春秋』昭和3年7月号

推察とか、同業者としての嘆きとか言葉に長けた色々な文章が集まっていたけれど、これは芥川の個人的な生や肉体を撫でるように慈しんでいる。どことなく無骨さと愛情深さが滲む彼の、素朴な"さみしさ"が伝わってくる気がする。
友人の芥川や萩原朔太郎が今の時代でいえば若くに亡くなり、写真も若々しいまま止まっているのに対し、彼は七十二歳まで生きている。その後も年を重ねて老いてゆくとき、どんな思いだったのだろうと考えてしまう。

あとは、田端文士村の成り立ちの展示で、大正初期の谷田川の写真を見た。
谷田川は巣鴨の染井霊園あたりを水源として、とちゅう藍染川と名前を変えながら上野の不忍池へ注ぎ、東京湾へ流れるルートの川だった。だった、というのは、1932年以来工事が進んで今は暗渠になっているのだ。
壁にモノクロで貼られた当時の谷田川は道端に流れるささやかな小川で、水面に、まだらな陰影があった。その時の空の模様が映っていたのじゃないかな。

記念館を出たら、Googleマップを見ながら谷田川通りの方を目指した。もう埋まっている、この川筋を歩いてみたかった。
途中芥川龍之介の旧居跡にも寄った。当たり前だけれど、模型で見たような立派な邸宅も、彼がするする登った木も、二階の豊かな書斎も跡形もない。空襲で焼けて、復興の時に様変わりしてしまったのだという。今は小さなマンションが立ち、がらんとした更地にはじきに記念館ができるそうだ。

しばらく歩いているうちに、急に雲行きがあやしくなった。たちまち空一面がどんよりとくもり、雷が鳴りだした。
田端の空は雲におおわれて、どこまで行っても今にも雷が落ちてきそうな感じ。引き返そうにも田端駅からはかなり離れてしまっていて、これは先の駒込駅まで行くしかないと進んでいく。

八幡坂通りを下っている途中、命の危機を感じるほど雷が鳴りだしたので、屋根のある駐車場に避難した。スマホで調べて"雷が鳴っている時に屋外にいたらなるべく低姿勢で"とあったので、しゃがんでじっとする。雨も激しくなって、足元では高い方から低い方へ、川みたいに雨水が流れていくのを眺めていた。

そこで、あることが起きた。
どこかの家のお母さんが傘も持たずにこちらに向かって走ってきたのだ。え、え、私?!と顔に出さずに驚いていたら、するっと同じ屋根の下へ入って、
「傘ないの?!」と声をかけられる。
ないんですと答えると、ちょっと待ってて、この近くに住んでいるから傘持ってきてあげる!と言われ、遠慮もつかのまお母さんはもう一度豪雨の中に飛び出す。それからしばらくして、ビニール傘を手に戻ってこられた。

「さっき通りかかった時に気になったのよね。返さなくていいからね!」とこちらを見て笑う。小さい頃に友達のお母さんと話す時のような、不思議な安心感があった。
絶対に返します、と家の場所を聞いて、何度もお礼を言う。
お母さんは気をつけてと残して、びしょ濡れになったズボンの裾を両足ともたくし上げて去っていった。

一瞬の出来事だったのだけれど、すごく感動した。
なんか、見知らぬ女性なのに、生き別れた肉親が分けてくれた優しさかというぐらいにあたたかかった。
大げさかもしれないけれど、豪雨と熱波の地球温暖化に、収集がつかなくなっているオリンピック、殺伐としたネット、もう世紀末かなと思っていたこの頃に踏みとどまらせるような、わすれがたいできごとだった。

お母さんの傘のおかげで、私は少し雷が弱まった頃を見計らって、雨の中を走った。

下の画像は、八幡坂と突きあたる赤紙仁王通り。雨が激しい


途中また危ない感じがして、ポプラという生活用品店に避難。レジの側で売っていたコロッケを買って時間をつぶした。これも大げさじゃなく、カリカリホクホクで今まで食べた中で一番美味しいコロッケだった。もうなんなの田端…なんていい街…。

ここでだいぶ雨宿りさせてもらったおかげで、雷が止み、少しずつ雨が上がっていった。私はその後無事に谷田川の暗渠にたどりつき、その川筋を歩くことができたのだ。

♦︎雨上がりの谷田川通り(この手前のカーブ。下に水脈が埋まっている)。分岐して見えるのは田端銀座♦︎


この日の放浪はわずか3時間ほどで、豪雨とともにあっという間に過ぎ去った。
途中こわかったけど行って良かったなー、田端という街がこの日でとっても好きになった。いつか住みたいくらい、その時は暗渠沿いがいいなあ。まだまだ回れていないスポットも多いので、また時間のある時にのんびり歩きたい。
二〇二一年の夏、これだけでいいって思っちゃうくらい素敵な日でした。

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