テックデザインとウェルビーイング
勤務先の同僚に「Notion」というタスク管理アプリを教えてもらった。
注意散漫になりがちなことから、このアプリに救われたそうだ。
わたしはたくさんのTo Doを同時に抱えることが少なく、タスク管理自体のニーズがないのだが、このアプリはユーザーインタフェースの使い勝手が良く見やすく設計されているので、なるほどその同僚のような人にとってこれは神アプリなのだなと思った。
と、同時に、そうした何かしらの困難を抱える人の救済にもテクノロジーが役立っていることを実感した。
「ポジティブ・コンピューティング」という考えがある。シドニー大学のラファエル・カルヴォ教授とケンブリッジ大学の研究者ドリアン・ピーターズ氏の2017年の共著「ウェルビーイングの設計論」(原題:Positive Computing)で提唱された考えで、日本語では「人を幸せにするための情報通信技術」と訳されている。先述のNotionもわたしの同僚にとってのポジティブ・コンピューティングと言えそうだ。
そう、人を幸せにすることは、一つの答では叶えられない。幸せというものが十人十色だからだ。大量生産が加速した20世紀の社会は、大多数や平均値を基準にした「最大公約数的な発想」が人々の暮らしをより良くすると考えられてきた。だが、21世紀に入ると情報通信技術の発達により個別最適化が可能になったことも関係し、「最小公倍数的な発想」が一人一人の(SDGsの定義を借りると誰一人取り残さない)幸せな状態を実現し得るものとして捉えられてきた感がある。
話題の生成AIをはじめ、生活や社会に変革をもたらす最新技術は諸刃の剣で負の側面も持ち合わせるのが常だが、個別対応が基本の情報通信技術こそ多種多様なウェルビーイングを実現し得るポテンシャルがあると考える。各人の意思や状態を反映でき、人をつなげる力も持っているからだ。
わたしはエンジニアではないので専門的なことは語れないが、デザインの観点から面白いと思うポジティブ・コンピューティングの例がいくつかある。
Microsoft Teams for Education「Reflect」(2022年)
-子供たちがより良く生きるための心の知能指数の向上も図る感情伝達ツール-
画面越しのリモート授業では伝えにくい子供たちの今の気分をモンスターのキャラクター(Feeling Monster)が代弁してくれるMicrosoftの教育用Teamsの新機能。生徒は先生だけに自分の感情を簡単に伝えられるので、ポジティブな感情はもちろん、なかなか表面化しないネガティブな感情も吐き出せそうだ。文章で気持ちを伝えようとすると、うまく言い表せなかったり、文章を書くことに意識が行ってしまいがちだが、絵文字感覚で喜怒哀楽(さらにその下の階層もある)を示せると、感情を「直感的」に伝えられることも良いと感じた。
これは子供に限らず大人にも必要なことではないか。特に「職場」に応用されると良さそうだ。ウェルビーイング経営の一環で、ワークエンゲージメントを高める「心理的安全性」が重要視されてきたからだ。生徒にとっての先生に当たる存在が、上司や人事部で良いのかどうかは疑問だが、感情を偽らずに吐露できる場があると、救われる人もいるかと思われる。
この新機能のことを知った当初、教師が子供たちの心の状態を把握でき、不満や不安を感じている生徒がいれば、1対1で話し合うことができるのが良いと思った。カウンセリング業務を円滑化するという主に教師側の視点から見た利点だ。
その後、公式サイトで「心の知能指数(EQ)」に言及していることに気づき、この経験が子供たちにとってより良く生きる手助けになると感じた。この表現ツールを用いて自分の感情を識別し、可視化することは「メタ認知」である。それを習慣的に行うことで感情をうまくコントロールできるようになる、つまりEQを高めるということだ。現代社会において、悩みの多くは人間関係に起因すると思われる。現実社会に留まらず、仮想空間上での不特定多数の人たちとのコミュニケーションが日常になった今は特にそうだ。子供の頃から感情を管理し活かす能力を高めることも意図したこの新機能は、非常に社会的に意義のあるアイデアだと思う。できればわたしも子供の頃にこの能力を身に付けたかった。今からでも遅くはないので、是非、大人向けにも展開して欲しい。
Mastercard Biometric Checkout System(2022年)
-健康に良いと言われる「笑顔」で本人確認する生体認証決済システム-
マスターカードが昨年発表した新しい生体認証決済システム。顔、或いは手のひらで本人確認できるのだが、ユニークな点が認証に「笑顔」が求められること。虫の居所が悪くても決済時には画面に向かって無理にでも笑わなければいけない。この発想はなかったので感激した。笑顔は細胞を活性化し免疫力を高める効果があるという医学的な見解もあるようだ。米心理学者シルヴァン・トムキンス氏が提唱する「表情フィードバック仮説」というのもある。顔面の表情が実際の感情を引き起こすという考えで、立証はされていないものの、もしこの仮説が本当なら作り笑いでもウェルビーイング効果があるということになる。何よりも笑顔はその場の雰囲気を明るくするので、店にとっても嬉しい提案である。
そう言えば、一度も笑わずに一日を過ごすことがあるような気がする。癒しロボットも機械が人を幸せな気分にさせるが、決済システムのようなお堅いものでも人の感情を引き出せることを知って嬉しくなった。(顔認証についてはプライバシー侵害の懸念もあるが)認証技術にコミュニケーションの側面を持たせた点においても画期的だ。これぞ、人の振る舞いや行為の観察から導き出すデザイン的な発想(UXデザイン)であると感じた。
これは「ナッジ(nudge)」のデザインでもある。ナッジとは、2017年にノーベル経済学賞を受賞した経済学者のリチャード・セイラー教授と法学者のキャス・サンスティーン教授が2008年に提唱した行動経済学で、「望ましい行動に人を自然に導く方法論」を指す。
(参考文献:リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン著 遠藤真美 訳「実践行動経済学」日経BP 2009年)
清掃の負担を減らすために男性用便器に的の役割を果たす蝿の絵を付けたオランダのスキポール空港のトイレが、ナッジの代表的な表現例である。マスターカードのケースは笑顔を強要するので、自然に導くと言うと語弊があるが、オンライン決済と笑顔という掛け離れた要素を既存技術を応用し、無理なく結び付けた点で、テクノロジーによるナッジの好例と言えるのではないか。
Oura Ring(2018年)
-自分だけではなく身近な高齢者の健康管理もできそうなスマートリング-
フィンランドのテック企業が開発した指輪型のフィットネストラッカー。2018年の初代機の時点で体温計測できたことからコロナ禍の医療従事者の健康管理に導入されたことを機に、その有用性が見出されたと記憶している。最新モデルでは、心拍数、呼吸数、血中酸素飽和度、体温、睡眠状態、活動量などの計測が可能なようだ。
Apple WATCHは、性能の高さに加え、同社の他の製品と同期できることや、ブランド力やスケールメリットがあることから多くのユーザーを獲得しているが、ウェアラブルデバイスで普及に成功した例はまだ少ない。Oura RingはApple WATCHほど普及している訳ではないが、地道に利用者を増やしているようなので(昨年、累積販売数100万個突破~Oura公式情報より)、新種のウェアラブルデバイスとして成功したと言っても良さそうだ。
わたしは、このリングを同居している高齢な母に着けさせたらどうかと思った。病院に行きたがらず、健康診断も受けないので、これを着けさせてわたしが自分のスマホにアプリを入れ、計測結果を確認するのはどうかと考えた。そういう使い道もあるのではないか。母はきっと嫌がるだろうが、一般的にはスマートウォッチよりもリングの方が装着することへの抵抗が少ないのではないかと思う。特に日本のような高齢化社会には、潜在ニーズがあるのかもしれない。
(昨年)5月にハリウッドで脚本家たちによる大規模なストライキが敢行された。配信サービスの台頭による報酬の減少に加え、AI脚本家の脅威も論点にあるようだ。
果たして「実体験」による経験値のないAI作家が人間の感性やスキルを超えられるのか疑問だが、もしかしたらその脅威が既に実感されているのかもしれない。
と言うわたしも最近、ソフトクリームを完璧に作るロボットが実現していることを知り、軽いショックを受けている。何故なら、学生時代のアルバイト先でソフトクリーム作りに挑戦し、練習を重ねようやく一人前にできるようになった喜びを体感したからだ。この場合は人手不足解消に貢献しているので、あって然るべきものだ。だが、最新技術は人の仕事だけではなく、努力して技能を習得する喜びや感動も奪う可能性があることにも気付かせてくれた。
最近では、アニメーターなどの長時間労働を強いられる職務において、作業の一部をAIに代行させる取り組みも進められている。最新技術がそのようにウェルビーイングの実現に向けられることを願う。特に情報通信技術は、冒頭に書いたようにそのポテンシャルが高いのだから。デジタル化を推進するだけではなく、その先にあるものが幸福であって欲しい。それを具象化できるのが「デザイン」であり、これからのデザインの使命だと考える。
NewsPicksトピックス 2023.6.30掲載記事より転載(筆者:本人)
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