バランスとは低空飛行
今朝の思考状態を自分よがり出版視点で記しておこう。
(月曜日の朝から自宅をスタバ代わりに自前のチャイを啜りながら、書いているという生活様態が自分には至福の時間。)
「今朝の自分は整っている」
なせか?
バランスが取れているといふ実感ありきなのではあるが、
「バランスがいつも取れるように努めているという姿勢がある確信」めいた心側からの働きかけをキャッチした。
なぜか?もう少し丁寧に掘り下げるなら、
最近は、正しいと思える(その時は宇宙と地球の時差の関係で損したと思っても後から結果オーライ◎だったなと思える)周りはさておき、「自分が一体どうしたいか?」という自分軸の判断ができている傾向が顕著であるから。そこに(正しい)(間違い)という二元論的短絡な思考は介在しないで頂きたい。
実例を挙げるなら、税金未納の切羽詰まる状態にあっても、コロナ前に請け負った楽しい熱海の仕事をお断りしたこと。自分の中では地味に快挙である。15歳の猫さまの流動性胃炎の看病の方が優先だから当たり前なのだが。自分の子供が病気の時、家を十日間も開けて育児放棄しないでしょ?無味乾燥した紙切れより命の暖かさを優先した。お金への概念を書き換えた。以前の自分であれば、低賃金でもこのリゾバのような楽な仕事にいとも簡単に手を染めていただろう。結局、こころはスサノオのように荒んでいる。自分とは薄情な在家の輩である。どんなに行者ぶって水業や登拝なんぞしても、狡さやせこさは拭えない。真剣に唱えていた念仏に意味はあったのだろうか?
それはさておき・・・
何年かぶりにヨガでもしようかとふと我に返る瞬間があった。言い換えれば、バランスの偏りを是正するはたらきかけがあった。そろそろ身体の軸が形成されてきているので、次の段階への移行が始まっているのだろう。初動負荷以来、すっかりやめていたヨガの目的を今回見出すことができたらしい。ヨガが目的にならないようなオリジナルヨガを見つけられそうな予感。ここ数年は、よからぬ妄想や悪魔の洗脳もあって、異常なほどヨガ実践者への執着、悪意、嫌悪感に苛(さいな)まれ、本当に苦しい日々であった。それももうこのような形で自然に収束を告げられた。自分で悩んだり、どうにかするような事はないのだろう。
苦しいのは、ただ一つ。自分と向き合うこと。攻められる対象は他でもない、過去の分かってない代表選手である自分自身。デフォルトモード。受け入れ拒否状態が今の今まで尚継続している。自分に向き合うとはこんなに嫌悪感に潰されることなのか?マジで苦行。生きてる感じしない。自分を否定するのは骨の折れる作業である。そのプロレスにヨガが使われただけのどうてもいい話ではあるのだが。
苦しさの絶頂も山場を迎えると、身体が訴えてきた。
「お前の身体、ゴミ屋敷だぞ。そろそろどうにかしろよ。粗大ごみで行き場がないぞ。食べてる物、その食べ方が異常だぞ。折角、流行り病で体重落ちて、ようやく40キロ台突入だったのに勿体ない。ストレスから来るやけ食いで、負のスパイラルに長らくはまっているようだが、もう、そろそろやめんかのぅ?」
そうか。だから、最近、ゴミ屋敷チャンネルばかり観ていたはずだ。どんどんものがなくなっていくさまが脳内快感。潜在意識って完璧やん。自分で身体が心が魂が淀んでいると分かっていたんだ。
思い出すのは、師匠から言われた言葉「淀んだ川も流れていればよし」
年の瀬に、三つを整える話をされた。
「身・精神(心)・魂」
三位一体、身・口・意でもよいのだが。三行とでも呼ぼうか。それは家を基盤とした設計図にも例えられると思う。男の人向けなら車を身体と見立てた日々のメンテナンスが分かりやすい。
【身体】
初動負荷、ウォーキング。
建物でいう基礎工事。トラス構造でしっかりとした支柱、外観、壁、屋根などのハードウェア。
【精神】
リセット。気分転換。茶会。夜の妖精茶会。瞑想。読経(ご神事)。よきこと。
配線、配管、電気系統、建物全体に配される光、電気、水、ガスの滞り流れる神経ニューロシステム
【魂】
呼吸。休息。クーリング。水業、登拝などの霊性高めること(慈悲を司る鍛錬)
集中。没頭。
断熱材や換気、サーキュレーション。
呼吸法をした。怒涛のどとく溢れ出る毒よ。大量の毒素が喉の奥の川(経絡)を底の方から一気に上へと這い出される。邪気や要らないマイナス感情、溜息と共に吐き出される。そうやって上昇してくる夥(おび)しい量の毒たち。これは、まずい。汚染がかなり激しい。貯め過ぎていた。しまった。こんなにもその鬱のような被害者意識のままでいたかった動けなかった自分を見つける。数年間の淀み。そうか、初動負荷だけじゃ内臓の毒出しはできないのか。そこばかりに捕らわれてフォーカスしすぎていた模様。いつもの悪い癖やね。依怙贔屓。ヨガを真っ向否定してたわm(__)m。そうか、それぞれの効用があって、果たす目的が違うんだね。いまはっきりと分かる。だからヨガをするんだ。していたんだ。ヨガに傾倒しすぎていた自分も今となっては攻める対象ではない。間違いじゃない。
全ては、緊張、弛緩、短縮の繰り返し。
軸形成、内臓と心の絞りだし清掃、魂の雑巾がけ。
それをただ繰り返すだけ。
毎日していれば、大掃除なんかいらないし、断食合宿や大それたオシャレなリトリートなんかもいらない。日々繰り返していれば、大きく動かなくても少しの労力で済む。直ぐ取り掛かれる。直ぐできる。時短。その合理性は脳内快感。
腑に落ちた。これなら、自分と仲良くできそう。自分の城を綺麗にできる。いつ誰が来てもよさそう。
自分らしさとして、大事にしたいのは、霊性高めでありながらも、同時にヒッピーさとは無縁のファンキーさを保持していたいということ。
読経はする。だけれども、その後に、平和の祈りで気を軽くして、whitney Hustonで「精進落とし」するような儀式を必ずしようと思う。
本質を逃さない為に。
自然も人口も同時に共存させてどちらも薄めておきたい。
それは行者と遊郭の関係。
いつの間にか、出来てれば別にしなくてもよいところまで辿り着いているだろう。