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説一切有部の存在論

前回は自我についての本を読み、内容的には西洋哲学史の話をした。感想に書けなかったが、テキスト内では仏教思想にも一部触れられており「こっち方面は不勉強だなぁ」と思いながら読んでいた。
そんなわけで今回は三枝充悳著『仏教入門』(岩波新書)を読んだ。表題の通り本書は仏教の入門書であり、思想史の解説が他の入門書よりも手厚いのが特徴である。本稿ではその中で面白いなと思った説一切有部とその教説について、本書の議論を参考にしながら簡潔にまとめてみたいと思う。

1.中期仏教の成立

説一切有部(以下、有部と略す)とは仏教史上では中期に生まれた部派の一つである。まず仏教史における中期とは何かについて、『仏教入門』から引用してみよう。

中期仏教は、教団の分裂によって部派仏教が生まれ、それとおおむね前後するアショーカ王の即位(紀元前268年ごろ)以降をさす。各部派は初期経典を整備しつつ自説を固め、その後しばらく遅れて大乗仏教がおこり、各種の初期大乗の諸経典や少数の論書が作られた、後4世紀はじめまでの約550年間を、中期仏教と呼ぶ。

三枝充悳『仏教入門』12頁

中期仏教は教団の分裂を契機として成立したことがわかるが、これは布施の戒律を巡る対立であったらしい。具体的には「金銀の布施を受け取ってもよいか」という内容で揉めたようで、改革派が大衆部、保守派が上座部というグループに分裂した。
この両グループにおいて更に分裂が起こり、有部は上座部の方から分裂した一派である。この分派の理由を岩本裕は「教学上の問題」とみており「後代の所伝では、上座部が経典を主としたのに対し、説一切有部は論(経典を釈して煩瑣哲学を展開させたもの)を主にしたので分裂したという」と説明している(岩本裕『佛教入門』中公新書〔152-153頁〕)。

2.諸論書の成立

ところで、経(経典)と論(論書)との区別についてだが、一般に「経」とはブッダ自身の教え、仏説を意味する。これに対して「論」とはブッダではない人(論師)の著した「経」への研究・注釈のことを指す。
有部の代表的な論書として挙げられるのがカーティヤーヤニープトラ(迦多衍尼子)の『発智論』であり、その注釈書が『大毘婆沙論』、そのまた注釈書がヴァスヴァンドゥ(世親)の『倶舎論』として知られる。なお『大毘婆沙論』の特定の著者は不明であり、カニシカ王の結集によって成立したということが唐の玄奘によって伝えられている。
有部を含めたこうした部派仏教内で作られた文献類をアビダルマという。「アビ」とは「対して、ついて」の意であり、「ダルマ」とは上記で述べた「経」と同一視され日本語では「法」と訳される。それゆえ「アビダルマ」とは「法の研究」を意味し、「対法」と訳される。
そうなると『発智論』でも、『大毘婆沙論』でも、『倶舎論』でも何かしらダルマについての研究をしているのだなと一先ず理解できる。ではダルマとはいったい何なのかについて考えねばならないだろう。

3.ダルマの存在論

ダルマを法と訳することを先に述べたが、もう少し詳しくみていこう。ダルマというのはサンスクリット語(パーリ語ではダンマ)で、その語根「ドゥルフ」は「担う、保つ」を意味する動詞である。ここからダルマは、支え、礎え、きまり、かた、規範、慣例、義務、秩序、宇宙の原理、善、徳、普遍的真理、法律、倫理、宗教、教え一般などの非常に広い意味を持つ多義語として用いられる(三枝『仏教入門』104頁)。仏教独自の用法としては「教え」と「存在」との二義があるが、本稿では「存在」の意味にフォーカスしてみよう。
有部における存在の意味は世俗有と勝義有との二義に分けられる。まず世俗有とは「抽象的観念ではなくて、現実に事実として存在するモノをいい、それが日常世界に遍満する」ものとして考えられている(同書118頁)。これに対して勝義有とはモノとしての在り方が壊れ、それ以上壊れない程に極小化された極微として考えられている。デモクリトスのアトムの発想に似ているが、このような極微としての勝義有は「他のものに依存せず、それ自体で存在しており、有部の術語では、実体としてある、自性じしょうをもつ、自相上ある、と称し、このような自己存在がダルマであると主張する」と説明される(同書同頁)。

4.五位七十五法

こうした有部におけるダルマの分析をまとめた教説を五位七十五法という。「五位」というのは4種の有為法と1種の無為法との計5種のダルマのことである。有為法というのは生滅変化する無常の存在を指し、これに対して無為法というのは不生不滅である永遠の実在を指す。
「七十五法」というのはこれら5種のダルマを更に細かく分析したものである。内訳に関していえば、物質的な存在である色法11種、心の主体である心法(心王)1種、心理作用である心所有法46種、モノでも心でものない不相応行法14種となり、ここまでの72種が有為法である。それに3種(虚空、択滅、非択滅)の無為法を加え、72+3で75種のダルマを数える。
これらダルマの各々を説明することは本稿ではとてもできないが、有部の教説では七十五法のすべてが独立に実在し、それ自身の特徴を保持する(任持自相)と説かれる。また、この七十五法が過去・未来・現在において実在する(三世実有)と考えられており、この点から無常の弁証を行うのも有部の教説の特徴である。

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簡略的になりすぎた気もするが、これくらいにしておこう。有部や『倶舎論』について詳しく学習したい人には、櫻部建・上山春平著『仏教の思想2 存在の分析〈アビダルマ〉』(角川ソフィア文庫)をお勧めする。本稿で有部の話をチョイスしたのは、昔この本を読んだことを思い出して、復習がしたかったからでもある。
なお、今回は主として三枝充悳の『仏教入門』を読みながら感想を書いたが、途中で一度引用した岩本裕の『佛教入門』も併せて読んだ。この本は初期仏教における時代背景や教団の実情に詳しい。また、松尾剛次著『仏教入門』(岩波ジュニア新書)も読んでいたのだが、こちらは日本における仏教受容とその展開に詳しい。一口に仏教入門といっても色々な本があるようなので、好みの本を探すのも一興であろう。

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