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人間とメタファー
瀬戸賢一『メタファー思考 意味と認識のしくみ』(講談社現代新書)を読んだ。本書は日本語と英語とによる具体例を示しながら、《必須の表現手段》としてのメタファーを《人間的意味形成の問題》として取り扱う。根本的には、メタファーへの考究を通して「人間とは何か」という問いへの解答を試みるものである。
以前に霜山徳爾『人間の詩と真実』(中公新書)を読んだときも、その中心には「人間とは何か」という問いがあったことを思い出す。詩や比喩、広くいえば言葉の問題とは究極的には人間学の問いに至るのかもしれない。そうした動機に基づいて、今回はメタファーについて瀬戸の考える《人間的意味形成の問題》という観点から考えてみたい。
1.言語と人間
まずは私のちょっとした疑問から考究を始めよう。
英語theoryのもとになった言葉で、theōriaというギリシア語がある。哲学の文脈では観想、観照、研究、理論などと訳されるのだが、この言葉の本義は「見ること」である。そこで疑問に思った。なぜ「見ること」であるtheōriaが研究や理論といった「知ること」「考えること」寄りの意味をもつのだろうか。
少し考えると、英語のseeも「見る」だけでなく「知る」の意味でも使われるなと思い至る。例文を見てみよう(26頁)。
① Let me see your ticket, please. (切符を拝見します)
② Do you see what I mean ? (いっていることが分かりますか)
①のseeは「見る」の意味だが、ただ見るのではなく「確認する」の意が含まれており、やや「知る」寄りの「見る」である。これに対して②のseeは「知る」寄りというよりも、ほとんど「知る」そのものの意味でseeを使っている。
英語の例で考えたが、「見る」と「知る」との重なりは日本語においても散見される。たとえば「患者を診る」というときの「診る」は、視覚能力の行使というよりも、診察することを意味している。あるいは「手相を見る」とか「新聞を見る」というときも、「見る」は「知る」寄りの「見る」である。より顕著なのは熟語にした場合で、「見解」「了見」「私見」などの言葉は「見」の字を使いながら「考え」を表しており、「知見」と書けば「見る」と「知る」はこれ以上ないくらいに接近している。
なんだ、それならtheōriaが「知ること」寄りの意味をもつのも不思議ではなく、よくあることなのか……という一応の納得はできる。だがそもそも「よくある」のが不思議なのであり、どの程度「よくある」ことなのかという疑問が生じる。それは時代や文化を問わず、普遍的に起きる事態なのか。あらゆる言語において「見る」の場合のような類似性が発見できるのか。せっかちだが、そういうことを考えてしまう。
言語における共通性の問題は存在論的でもあり、認識論的でもある。瀬戸はこれを「人間が造形する意味の根幹に関わる問題」、「私たちがいかに世界と対面し、世界に働きかけ、世界から意味を受け取ることができるのかを、根本において規定しているものについての問い」であると説明する(13頁)。これが《人間的意味形成の問題》の内実である。
2.メタファーの普遍性
言語の共通性を《人間的意味形成の問題》として考えたが、それがなぜメタファーの問題になるのだろうか。次は人間の言語活動におけるメタファーの普遍性について考えてみよう。
まずは簡潔にメタファーの定義を述べると、メタファー(隠喩、暗喩)とは類似性に基づく比喩の一種であり、「より抽象的で分かりにくい対象を、より具体的で分かりやすい対象に《見立て》ること」である(204頁)。たとえば、先程挙げた哲学用語としてのtheōriaの諸義は「見ること」のメタファー、すなわち「知ること」を「見ること」に見立てている。
もう少し日常的な例で考えてみると、「目玉焼き」とは卵の黄身を目玉に見立てた料理であり、「目玉」がメタファーである。その類似性は卵の白身が眼球の結膜に、黄身が角膜に似ている点にある。一般化すれば「AをBとして見る」はたらき、特に“として見る”はたらきがメタファーである。
ところで「目玉焼き」で目玉に見立てられている黄身は、別に抽象的で分かりにくい対象ではない。だがこのような馴染み深い食べ物一つをとってみてもメタファーは用いられている。メタファーとは、なにも文学作品における華麗な装飾のためだけに存在するのではないのだ。メタファーはありふれている。
たとえば「あんパン」は「あん」と「パン」、「ジャムパン」は「ジャム」と「パン」からなる合成語だが、「メロンパン」はメタファーである。あるいは「月見うどん」も「たい焼き」もメタファーである……お腹が減っているわけではなく、これらは瀬戸が紹介している例である(3頁 ; 203頁)。
ではここで話の抽象度を上げよう。たとえば「人生は旅である」というメタファーは、人生を旅に見立てることで成立している。「人生」というものにスパッと解答を与えるのは大変だろう。卵の黄身について答えるよりも難しそうだ。こうした説明の難しいもの、抽象的なもの、あるいは一義的な解答を与えづらいものについて考えるときにメタファーは必然的に用いられる。
メタファーの必然性とは、対象に対する名称の欠落に起因する。言い換えれば、我々は何かを認識するときに、認識対象を規定する本質的定義を、あるいは対象を言い表す名前を常にもっているわけではない。名指す名前がないのだから、何か既存の別の名前をもってきて、未知の対象を既知のものに《見立て》ざるをえない。《見立て》がないと話すことも考えることもできないからだ。このとき、メタファーは《必須の表現手段》となるのである。
この意味で、メタファーとは日本語話者であろうと英語話者であろうと、はたまた現代人であろうと古代人であろうと同様に用いられる。つまりメタファーとは、人間に共通する認識・表現の手段であるという点において普遍的である。
なお「旅」というメタファーを瀬戸は重視しており、『メタファー思考』第二章「空間のメタファー」の中で、「旅」を運動のメタファーとして詳細に分析している。本稿ではカバーしきれないが、本書で最もボリューミーな議論なので是非読んでほしい。
3.メタファーと哲学
さて、少し話は変わるが『メタファー思考』を読んでいて私が連想した哲学者が二人いる。本書の中で紹介されているわけではないのだが、カントとベルクソンである。
カントは『純粋理性批判』の中でアリストテレスが規定したカテゴリーの再定義を行っている。アリストテレスの考えるカテゴリーとは、簡単にいえば述語の使われ方の分類であり、この述語形態を存在形態とみなすのが特徴である。これに対してカントの考えるカテゴリーとは、これも簡単にいえば判断の仕方の分類である。たとえば「もしAならばBである」という判断(仮言判断)は原因と結果という因果性の概念を用いている。これは人間の判断に先立ってその判断を制約している概念であり、このような概念(純粋悟性概念)のことをカントはカテゴリーと呼ぶ。
翻って、メタファーを認識の手段であると考えた場合、カントがカテゴリーを判断の形式と考えたように、メタファーを認識の形式と考えたらどうなるだろうか。厳密には、認識形式の一部門としてのメタファーが問題となるだろう。この問題はメトニミー(換喩)やシネクドキ(提喩)のような、他の比喩との比較をしながら、認識形式の問題として比喩の一般化を目指すことになるだろう。あるいはより広い問題として、レトリック全般にまで探究の範囲を拡大すべきなのかもしれないが、どのような既存の研究があるのかまでは今回調べられなかった。
次はベルクソンについて話そう。『メタファー思考』第三章第二節「メタファーと経済」では経済学用語におけるメタファーについて解説しながら、「時間」と「お金」との関係について分析している。時間には「費やす」「浪費する」「節約する」「持ち合わせる」「かかる」といった表現が可能であるが、これらはすべてお金のメタファーである。
ところで、ベルクソンの時間論の入り口には「時間と空間とを混同してはならない」という主張がある(と思う)のだが、これはともすれば人間が「時間を空間に見立ててしまう」ということを意味する。換言すれば、空間のメタファーが幅を利かせているせいで我々は時間を見失う。
ベルクソンへの直接的な言及はないが、この空間のメタファーから一歩進めて、瀬戸はお金のメタファーを通して人間が時間を認識していることを明らかにしている。そして、お金のメタファーを通して認識された、量的に計算可能な(ベルクソン風にいえば空間化された)時間を漢字の「時間」、計量化され得ない時間を平仮名の「とき」と呼んで区別している。
さらに瀬戸は「とき」としての時間を、ミヒャエル・エンデの『モモ』を引きながら「いのち」に見立てている(183-184頁)。つまり、お金に代わる新たなメタファーとして、「とき」を「いのち」に見立てている。こうした生命との連関をみる時間論がメタファーの分析から出てくるのがユニークである。また、空間やお金のメタファーが時間への直接的な認識を阻害するからといって、メタファー自体を拒絶するのではなく、「いのち」という別なメタファーを通して時間理解を試みるのも面白い。これは《人間的意味形成の問題》という観点に立つからこそ可能な考究であるだろう。
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少し散らかったが、このくらいにしておこう。
私にとって今日の話は「詩とは何か」という問題に連なる考察であった。元々これは哲学者が詩を問題にするのはなぜなのだろうか、という疑問から生じた問いだったのだが、少し展望が開けたように思う。瀬戸は「私たちが世界と交渉できるのはなぜか」という言い方をしているが(13頁)、詩やメタファーは人間と世界との関わり方を表しているという意味で、哲学の問題になるのだろう。
なお、今回は瀬戸賢一『日本語のレトリック 文章表現の技法』(岩波ジュニア新書)も併読していた。この本はレトリックの修辞(文体)部門に関する解説書であり、30種のレトリックについて具体例を示しながら説明している。本書はレトリックを人間にとって普遍的な表現手段とみなしており、この点において『メタファー思考』とテーマを共有している。関心のある方は『日本語のレトリック』から読み始めるのが学習の順序として取り組みやすいだろう。