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怪物と人間

ギリシア哲学の本を読んでいると、前提としてギリシア神話の知識が求められることがある。訳注などを見れば困らないのだが、こうした教養を修めていないのはなんとも後ろめたい。
そんなわけでギリシア神話の入門書を手に取った。今回読んだのは高津春繁著『ギリシア神話』(岩波新書)と、松村一男著『はじめてのギリシア神話』(ちくまプリマー新書)とである。二書の特徴に関していえば、高津の『ギリシア神話』は神話のエピソードそのものの紹介がメインで、松村の『はじめてのギリシア神話』は他地域の神話との比較が豊富である。
今回私は『オデュッセイア』の物語が一番面白いと思ったので、本稿では上記二書を参考にしながら、まずその解説を行う。これを踏まえて「怪物とは何か」ということを考えてみようと思う。

では簡単に『オデュッセイア』のあらすじを話そう。

これは『オデュッセウス物語』の意味で、『イーリアス』と同じく二十四巻より成る、オデュッセウスの帰国物語を唱った大叙事詩である。全体は十ヵ年に亘る彼の漂流と帰国後の求婚者退治の話であるが、これが四十一日という短い期間の事件に纏められていることも亦『イーリアス』とよく似ている。

高津春繁『ギリシア神話』184頁

オデュッセウスというのはイオニア海中の小島イタケの王で、トロイ戦争の英雄として知られる。戦争が終わりオデュッセウスは故郷に帰ろうとするのだが、その帰途で怪物に襲われたり、海神ポセイドンから航海の妨害を受けたりと散々な目にあう。作中でこの冒険譚は漂着先のスケリア島のパイアケス人に聞かせるという体裁で語られるのだが、彼らの援助を受けてオデュッセウスはようやく故国イタケに辿りつく。
だがイタケではいつまでたっても帰国しないオデュッセウスは既に死んだものと思われ、彼の妻ペネロペに求婚を迫る者たちが集まっていた。ペネロペはオデュッセウスの生還を信じて待っているのだが、しつこい求婚者たちはオデュッセウスの屋敷に押し掛け、その財産を浪費して日夜宴会に興じていた。そんな中、オデュッセウスはまず息子のテレマコスと再会する。その後、彼と協力して求婚者たちを一人残らず誅殺し、オデュッセウスはペネロペとの再会を果たした。
大雑把だが以上が『オデュッセイア』のあらすじだ。

この物語で私の興味を惹くのは旅の道中でオデュッセウスを襲う怪物たちである。たとえば、一つ目の巨人キュクロプスの住む島ではポリュペモスという巨人が登場する。彼はオデュッセウス一行を捕えてその部下を食ってしまうのだが、酒に酔って眠っている隙に杭で目を潰されてしまう。また、ライストリュゴネス族というこれまた人喰いの巨人が登場する。ここでも捕えられた部下が食べられ、巨人たちは逃げるオデュッセウス一行に大石を投げつけてその船団を破壊したという。
巨人以外の怪物だと、スキュラとカリュブディスの話もしておこう。スキュラは三重の歯、六つの頭、十二の足をもつ怪物で、やはり人間を食らう。そのスキュラの住む洞窟の向かいには日に三度そばを通りかかったあらゆるものを呑みこみ、三度吐き出すという大渦カリュブディスが待ち構えている。オデュッセウスはカリュブディス側の航路で全滅するのを避けてスキュラ側の航路を選び、その結果六人の部下が奪われた。

人を食らう怪物を選んで紹介したが、古代ギリシア人のイメージする「怪物の怪物性」とは食人であるように思える。あるいは食人への恐怖、嫌悪が他のタブー(殺人や近親相姦)よりも強烈に無意識に刻みこまれ、怪物という形象で神話に現れているのではないだろうか。
松村はオデュッセウスの漂流航路に関して以下のように述べている。

この間の領域にはパンを食べる人々が登場しないのも特徴的です。当然、農耕も農地も描かれていません。詩人ヘシオドスは、魚や獣や鳥は互いに食い合うので、彼らには正義(dike)は存在しない。しかし人間には、ゼウスが互いに食い合うこと、つまり「人肉食い」(allelophagia)を禁じたので、正義が存在すると述べています(『仕事と日』)。農耕を知らず、その代わりにロトスの実や人肉を食らう世界は人間の世界ではないと見られていたらしいのです。

松村一男『はじめてのギリシア神話』136-137頁

ちなみに「ロトスの実」とは食べると記憶を失う木の実である。甘くて美味しいらしい。
さて、古代ギリシアにおいて同族を食べるか否かというのは、人間であるか否かを判定する一つの基準になっていたようである。これは裏を返せば古代ギリシア人たちの観測可能な世界において、現実に食人を行う文化圏が存在していたということだろう。実際、アリストテレスは『ニコマコス倫理学』(1148b)の中で黒海岸の蛮族に見られる習俗として食人に言及している(ヘロドトス『歴史』にも同様の記述があり、アリストテレスの発言はこれを踏まえた伝聞だろうか?なお本稿で用いる『ニコマコス倫理学』の訳語は岩波文庫の高田三郎訳に準拠する)。

もう少しその文脈を見てみよう。『ニコマコス倫理学』で食人について触れられるのは、第七巻の抑制(enkrateia)と無抑制(akrasia)に関する議論中の第五章においてである。ここでアリストテレスは、食人のような獣的(thērion)な気質は人の生まれによるもので、これは悪徳の限界外の問題であると考えている。たとえば「ご飯の前におやつ食べちゃった」というのはアクラシアであるが、「ご飯にオデュッセウス食べちゃった」というのはもう次元が違う、ポリュペモスかよ、ということである。
アリストテレスは悪において人間を逸脱するものを獣的と呼ぶのだが、これに対して善において人間を超越するものを英雄的(hērōikē)または神的(theia)と呼ぶ(1145a)。獣的なものも、英雄的・神的なものも、共に人間世界の埒外に存する、いうなれば人倫の他者である。倫理とはあくまで人間世界のルールなのであり、そこに収まりきらない神や英雄、そして怪物に善悪を問うことはできないのだろう。

以上を踏まえると、『ニコマコス倫理学』でも、『オデュッセイア』でも人間世界とその外の世界、いわば異界とが分けて考えられていることがわかる。人間世界とは倫理の世界であり、パンを食べる世界である。これに対して異界とは神的なものと怪物的なものとに分けられるが、本稿で考えている怪物的な世界とは倫理を喪失させる世界、人喰いの世界である。
本稿の考究を経て、私は人間学としての怪物学について考えている。倫理学や宗教学が人間学との関係を結びうるように、怪物への思索が人間学との関係を結びうるのではないだろうか。
怪物とは人間世界の外なる存在者として人間を相対化するものたちである。怪物と人間との関係は捕食者と被捕食者との関係であり、これは生物学的には食物連鎖として、存在論的には存在するものと存在を奪われるものとして規定できるかもしれない。
神話の怪物たちを恐々と覗き見ながら、そんなことを思った。

……文化人類学の知見が必要かもしれない。今後の課題として記憶しておこう。
余談だが、monsterの語源はラテン語のmonstrumであり、これは「思い出させる」、「警告する」の意をもつ動詞moneoに由来する。ここから「怪物と記憶」というタイトルで今日の感想を書くつもりだったが、手元が狂った。
なお、このエティモロジー及び本稿の人間を相対化する怪物という視点は金森修の『ゴーレムの生命論』(平凡社新書)から得たものである。また『はじめてのギリシア神話』では「作者としての集合無意識」(151-153頁)という小題で、『オデュッセイア』において記憶がどのような意味をもつかが論じられている。関心のある方は一読を推奨する。

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