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虐待と子育て、両親と僕

はじめに

3人兄弟の長男として生まれた僕は、この6年、ずっと人生に悩んでいる。
「6年」と言い続けている間に、実はもう7、8年とか経っているのかもしれない。そのくらい僕は、もうずいぶん長いこと自分の人生をうまく前に進められずにいる。気づけば僕は、何も進めないまま23歳になっていて、4つ下の妹の方が一足先に人生をまた一歩進めてしまいそうなくらいだ。

最近、少し考えていた。
この「6年」のつまずきには、大小様々な要因はあれど、1つには父と僕の歪な関係とその蓄積があるのではないかと。

このnoteには、僕が自分の人生をうまく進められないことを、いつまでも他人のせいにして、こんなnoteをわざわざ書き、誰かに読んでほしいと思うような、甘えて腐りきったホンモノになるまでの後悔とかを詰め込んである。ある種の懺悔だ。
あくまでも「親と子」の、「子」側からの視点で、自分の人生の後悔と、「こんな親子だったら良かったのにな」という考えまでを書き連ねていこうと思う。
結論から言えば、「親も子も、1人の対等な人間同士なんだよ」というようなことを言いたい。
おこがましいことかもしれないけれど、いつか誰かが、このnoteから感じた何かを、自分の家族の「子育て」の役に少しでも立ててくれたらと、そんな風に思う。

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まずは僕と父の関係を書き出していく。
興味がなければ読み飛ばしてもらって構わない。
ただ、僕が伝えたい「親子とはこうあるべきではないだろうか」という考えに、僕が至るまでの経緯がなんとなくわかってもらえるかもしれない。
(追記:ちょっとだけ母も出てくる)

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過去の話

今までのnoteにも幾度か書いたかもしれないが、僕は父に虐待されてきた。
実際には「されてきた」という表現よりかは、薄々うちはなにかほかの家とは違うのではないかと、子供の時に感じていた違和感が、大人になって「あぁ、あれは虐待だったのだ」と認識できるようになったというのが正しい。

殴る、蹴る、首を絞めるといった暴力で言うことを聞かされるのが当たり前だった。寝ているときにみぞおちを蹴られて起こされたこともあった。
でも、どこの家もそんなもんだと親には言われていた。僕自身も、みんな言わないだけで、そういうものなんだと思っていた。

たとえほかの家は違うと気づいても、「うちの教育方針だから」ぐらいで納得していたと思う。これは後述する、僕の中での父の存在が大きくなりすぎたことに起因する。

夜中に車で連れ出されて山の中に置いて行かれたりなんていうようなこともあった。
少し大きくなった中学生くらいの頃には、父の暴力に対抗しようとして、包丁を取り出して泣き喚く僕に、母が挑発をしながら、ビデオカメラを向けていたこともあった。
思い返してみると、それなりに特殊な家庭環境で育ってきたように思う。

もっとも、「あれは虐待だった」と認識できるようになったことが幸せなことかどうかは、今の僕にはわからない。そのまま「そういう教育方針だった」という認識であった方が、今の親とのような軋轢を生むこともなく、普通の親子のように過ごせていたかもしれない。
まぁそんなこと、今となっては全部どうでも良い。
別に僕はここに両親の暴力を告発したいわけではないので。
時代的には親の言う通り、そういうやり方が別段特別ではなかったのかもしれないし。
ただ、そこに対話はなかった。親からの一方的な暴力による抑圧だけがあった。

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父さんは基本的には仕事に生きている人だった。
研究職という仕事柄、教育熱心で、幼い僕が疑問に思って聞くことにはなんでも答えてくれた。
小学生のときの学級活動の時間。父さんが自分の仕事を学校に話しに来てくれた時は、僕は自分のことでもないのに、とても自慢に思ったのをよく覚えている。
泳ぎ方やスキーの滑り方なんかを僕に教えてくれたのも、父さんだった。
僕から見える父さんは、なんでもできる人だった。

そんな父さんに僕は幼いながらに憧れていた。
父さんと同じ職業について、人の役に立つ研究をするんだと意気込んだ時期もあった。
大抵のことは聞けば教えてくれて、なんでもできる完璧な父。
今思うと、僕は自分の中で父さんを神格化していたんだと思う。
だから、激昂し、人が変わったかのような父が振るう暴力も、僕がなにか間違ったことをして、父がそれを正そうとしているのだからしょうがないものなんだと、受け入れられたのだと思う。

家の中では父が絶対だった。

当時の僕にとっての家庭がいつの間にか、父の敷いたルールに従い、父の顔色をうかがって生活をしなければいけない空間になってしまっていたのは、自然なことのように思う。

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父さんは基本的に僕や僕以外の家族の言動に対して、必ず否定から入る人だった。
自分の気に食わない言動があれば、相手の意見を真っ向から否定し、自分の考え方を押し付けようとする。
自分が仕事などの外的要因で余裕がなかったりすると、特に人格を攻撃するような言い回しをして、自分の意見をぶつけてくる。

例えば僕が「塾に入ってきちんと勉強をしてみたい」といえば、「家でだって勉強はできるだろう。別に塾に入る必要なんてない。だいたい家で勉強をしないやつが塾に入ったってなんの意味もないだろう。どうせお前は塾に入っても勉強は続かない」とか。
サッカーをやっていた僕が小学生の頃に、夏休みは毎日リフティングの練習をするんだと決めてやっていれば、「そんな練習やって何になるのか」「その練習一体何日やっているんだ」「それだけ練習していてそれしかできないのか」とか。そんな風に言われれば、できない自分が嫌になるし、続けるのも嫌になる。
そこでやめてしまえば「やっぱり続かなかったじゃないか」「やる奴は何を言われようとやるんだよ」と言われ、続けられない自分が嫌になった。
人のやりたい、やってみたいという気持ちをへし折ったうえで、「お前はできないんだ」と決めつける。そんな話し方をする父だった。

そんな父だったから、いつしか僕は、なにを言ってもまた何か嫌味を言われるのではないかと、父に自分の意思、意見を伝えるのを諦めていた。
自分の言いたいこと、やりたいこと、やってみたいことを表に出すのを避けるようになった。だってどうせ否定されるから。

なるべく父の思惑に沿うような言動を心がけて生きてきた。
父の考えに沿うような人生を歩めるように努力をしてきた。
父に自分の本心をさらけ出して対話することを、恐れて避け続けた。

*****

うつになった過去

父の顔色を窺って生きてきた。
高校生になるまで、「自分の家の中」に、のびのびと自分を表現できる場所がなかった。
それまで学校と家が世界のすべてだった僕には、窮屈だった。
家では家族の顔色を窺って、学校では友達の、先生の顔色を窺って生きてきた。自分の気持ちに耳を傾けるのが下手くそな人間になってしまった。

だからこそ今の僕は、人の気持ちに寄り添うのがうまいとか、共感能力が高いねとか言われるようになったのだろうけれど。それは自分の意見、意思を持たない、つまらない人間であることの裏返しでもある。

高校で進路を選択することになって、僕は父にならって理系を選択して進学した。
父は高専を卒業し、大学に編入、大学院を卒業した人だったから。
父は、これからは情報分野が伸びてくると、僕が中学生の頃からしきりに語っていた。
パソコンを与えてくれた。プログラミングの本を与えてくれた。都内で開催されるセミナーに参加させてくれた。
だからこそ僕は、情報系の学部に進学しなければならないんだと、漠然と思っていた。

父の期待に応えなければ。父の思いに応えなければ。

そのくらいの時期から、自分は一体何がしたくて、何のために勉強をしているのかがわからなくなった。

「どうせみんな死ぬのに、どうして努力をしなければいけないのだろう」
そんな風に当時のノートの端にも書いてある。

学校に行けなくなり、父に何度も殴られた。蹴られた。
学校の先生に精神科と心療内科の受診を勧められた。
母が病院を何件か一緒にまわってくれた。

僕はうつ病と診断された。

それから先に言った6年、僕は前に進めないでいる。

*****

今、そして僕の考え

これらが僕と父の関係のほぼすべてだ。
尊敬できる父で、僕の中の絶対でもある父だった。
過去のこれらの体験から、今の僕と父の関係がある。

うつになった原因にはほかにもきっと、大学受験という大事な時期に成績が伸び悩んだこと、身体が急に成長したことによって頻繁に貧血や頭痛を起こし体調を崩すようになったことなど、いろんな原因があったのだと思う。そういうのがあっても頑張れる人間は頑張れる。僕は頑張れない人間だった。そうして塞ぎ込んでいくうちに、うつ病という名前を付けられた。ただそれだけのことだと、今の僕は思っている。

うつと診断されてから、父は自分から僕の話を聞いてくれるようになった。
「学業の調子はどうだ」「大学は楽しいか」「将来やりたいことはないのか」等々…。
僕に期待するのをやめて、家族として適当なコミュニケーションをとっているだけなのかもしれないけれど。
僕も最初は戸惑ったが、それでも父と、少しずつ自分の考え方や思い、本心を交えて対話をできるようになっていくのが嬉しかった。

いまだに父は時々、棘のあるような言い方をすることがある。でも、それも母や妹が諫めてくれるようになって、昔に比べて言い方に特に気を付けてくれるようにもなった。少し時間を置いてからなら、僕からもこういう話し方が嫌だったのだと、伝えられるようになった。
年をとったということもあって、昔よりも僕の中での父のイメージは、丸く、優しいものになっていった。

変わったことは嬉しいのかもしれない。
父と本心でいろんなことを話せるようになったのも、嬉しい。

それでも、僕はいまだに父との関係の変化に、うまく適応しきれていないのかもしれない。
いままで本心で話してこなかったからか、時々父との距離感の測り方がわからなくなることもある。

それが少し、悲しかったりもする。

*****

ここから先は僕の個人的な考え。

親子関係だって、人間関係の1つのカタチだ。
親子である前に、対等な人と人との関係だと思う。

少し考えてみてほしい。
僕らは普段、他人と関わるときに、お互いにある一定のリスペクトをもって接しているように思う。
あくまで相手との対話のなかで、相手がどんな考え、どんな思いを抱えているのかを引き出し、知り、その人となりを少しずつ理解していく。
その過程で、自分の考え方と近しい人とは、より理解し合おうと対話を重ねる。逆に考え方が異なる人とは少しずつ疎遠になったりする。一般的な人間関係って、そのようなものだと思う。
そこに暴力による弾圧はあるだろうか。頭ごなしに相手を否定するように自分の意見をぶつけたりするだろうか。(たまにそういった理不尽を持ち込んでくる人もいるけれど)

自分が見ている世界と、他人が見ている世界は大いに違う。
それを互いに理解した上で、一定の距離感をもって接しているからこそ、円滑なコミュニケーションは成り立つのだと思う。

他人の考え方、主義・主張を、自分の価値観ひとつで捻じ曲げようとしたり、押さえ込んだりする権利なんて誰にも無い。僕はそう考えている。
でもそれは、お互いに相手を1人の人間として認め、接しているときにだけ成り立つ関係だとも思う。

僕はこれが、親子関係でも同様に求められるべきだと思っている。
先にも述べたように、親子である前に1対1の人間関係なのだから。
親は親の子である前に、1人の人間だ。
親には見えていない、子どもだけの世界の中に生きている。
それを親の価値観や考え方ひとつで、真っ向から全てを否定してしまって良いのだろうか。
子の考え方に耳を傾けることなく、自分はこうだから、こうして生きてきたのだからと、その価値観ひとつで子どもから考える機会を奪って良いのだろうか。
ましてや、暴力を用いて、自分の意思、主義や考え方に沿うような形に捻じ曲げてしまってよいのだろうか。

子育てに正解は無いとよく言われる。
でも、僕は明確な不正解があると思っている。
対話の無い教育は間違っている。
親が子の考え方や価値観に耳を傾けず、自身の「自分の子だから」というある種の「所有物」であるかのような感覚だけで、自分の考え方を押し付けようとするのも、子どもの考え、価値観を暴力によって支配しようとすることも、間違っている。

これは暴力を受けて育った僕だから言えること、伝えられることだと思う。

子どもだって、子どもである前に1人の人間なのだから。
暴力を振るえば、その場はそれで収まるのかもしれない。
でも、その暴力は、その恐怖は、子どもにとって忘れられないものになる。
頭ごなしに否定してしまえば、僕のように自分の意思を口に出すことをやめ、考えることをやめてしまうかもしれない。
僕のように、自分の考えを他人に伝えることを必要以上に恐れ、人間関係をうまく築けなかったり、対人関係にストレスを感じたりするようになるかもしれない。

n=1の例え話でしか無いのだけれど、きっと、その暴力は、その抑圧は、その子にとって何らかの形で一生影を落とし続けると思う。

*****

親子の関係は、社会での他人との一般的な人間関係とも違って、簡単に切ることができるようなものでもない。

書類の上でのつながりがあるから。血のつながりがあるから。子は親を選べないから。子どもは親から逃げて生きていく術を知らないから。

子どもの知っている世界には、親と自分、それ以外の少しの他人しかいない。
そんな人に、否定をされ続けて生きるのは、苦しい。

大抵の子どもは、親を憎んだり、縁を切りたいだなんて思いたくないだろう。でも、そう思ってしまう自分がいることが、僕は悲しい。
ただ、自分を受け入れてくれる、認めてくれる、いつでも帰ってきて良いんだと思える、親には、家族にはそんな空間であってほしかった。
そういう空間にできるように、僕からも歩み寄る努力をもう少ししてくればよかった。今の僕は、そんな風に後悔をしているのだ。

さいごに

以上が僕が自身の虐待の経験を踏まえて考えたこと、伝えたかったことだ。

対話の無い教育は間違っている。
子どもだって1人の人間だ。
少なくとも、まともに会話が成り立つようになったのならば、子どもの話を聞いて、子どもの意思や考えを聞いてあげるべきだ。
それを暴力によって、言葉や態度によって支配して、自分の思い通りにどうにかしようなんてことは間違っていると、僕は考えている。

数年前と比較すれば、僕と父の関係はかなり改善したように思う。
それは父が何度も繰り返し僕と話をしてくれたこと、カウンセラーさんとの面談を通して、少しずつ自分の過去について清算できるようになったこと、僕が親元を離れて一人暮らしを始めたことなど、いろんなきっかけがあったと思う。

父さんが「父親」になったのは僕が生まれてからのことで、父さんも僕が成長するにつれて、「父親」として成長してきたんだよな、なんてことを最近は考えている。「親による子育て」は同時に「子が生まれたときにはじまる親育て」でもあるのかもしれない。

でも、ここまで来るのに何度も苦しんだし、何度も泣いた。しんどかった。いまだに過去のことを思い出して、苦しくて、悔しくて、涙が止まらないこともある。いまだに親に憎しみを抱いてしまうことがある自分が嫌にだってなる。親との距離感をいまだに測りかねていること自体が悲しくなる瞬間だってある。

どうしたらよかった?こうしたらよかった。もっとこうすれば、ああすれば。いろんな考えや後悔が噴き出して止まらない。
毒親だ、親ガチャだなんだと、取りざたされている現代だけれど、僕はそういった他責的な考え方をいい加減にやめたい。自分の人生に自分で責任を持ちたい。
それなのに、僕はいまだに自分の過去に、今の自分の原因をどうしようもなく求めてしまう。僕が弱くて不器用な人間なんだと思う。
自分の人生に迷っている。
自分の過去に、今の自分の在り方の理由なんてないかもしれない。いい加減、前を向きたい。今を、足元を見据えて、前に進む努力をしたい。

もとはといえば、それを少しでも解消・解決に導ければと思い、書き始めたnoteだったけれど、存外説教くさく、長くなってしまった。

こんなにも長いこと偉そうに書いたnoteだけれど、結局本当のところは、正しい子育てが何なのか、僕もわかっていない。そもそも正しい子育てが存在するのかもわからない。ただ、僕が父さんに、家族に「こう在って欲しかった」を書きなぐっただけのようにも思える。

わからないけれど、このnoteを読んだあなたに、もし子どもがいるならば、あるいは将来子どもができたならば、このnoteのことを少しで良いから考えて、思い出して、自分の子どもに優しく微笑みかけてあげてほしい。

最後に、拙文をここまで読んでくれたあなたに感謝を。
ありがとう。

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りある
高校二年の冬にうつ病と診断され、ぼちぼち生きています。そんな僕の日頃の考えやぼやきを、自分なりの観点でまとめていきたいです。/みなさんの反応を励みに、少しずつ頑張っていきます。少しでも気に入っていただけましたら、スキ、SNS等へのシェアやサポートよろしくお願いいたします。

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