空想考古学・邪馬台国はココだ!#8 倭国大乱の実態
倭国大乱は、弥生時代後期の2世紀後半に倭国で起こったとされる争乱のことです。この争乱のことは、『後漢書』『三国志』『梁書』などの中国の複数の史書(正史)に記述されています。その内容は、およそこんな感じです。
倭国はもともと男子を王としていたが、70〜80年を経て、倭国内で国王の座を争う大乱が発生した。その争乱は暦年(約10年?)続いたのち、邪馬台国が勝利し、邪馬台国の一女子を王とすることで国中がまとまった。その女王の名を卑弥呼という。
邪馬台国がどこにあるにしろ、九州や畿内にあれば、日本史上初の大規模な戦争(内戦)の可能性があります。列島規模でないにしろ、九州や畿内の範囲であっても、古代では大規模な争乱です。しかし不思議なことに、このような大きな争乱にもかかわらず、九州や畿内にはその痕跡がほとんどありません。これは何故でしょうか?。
倭国大乱の原因として、「後漢の衰退」や「鉄の奪い合い」などの説がありますが、個人的にはどうもしっくりきません。百歩譲って「鉄の奪い合い」なら戦争の原因になりそうですが、「後漢の衰退」が倭国の争乱に直接かかわっているとは考えられません。私の考える倭国大乱は、「制海権の奪い合い」だと考えています。そのストーリーはこんな感じです。
邪馬台国以前、種子島・屋久島から沖縄までの島々に、海の民である南方系の縄文人たちが移り住んでいました。彼らは漁労や島々との交易をしながら生活していたと考えます。やがて、最大勢力を有する島から男王を中心とした国が誕生し、南西諸島の海を支配しようとしました。それまで自由に海を行き来していた別の島々の住民は、猛反発します。これが、南西諸島の多くの島々を巻き込んだ倭国大乱の実態です。
倭国大乱の痕跡が九州や畿内で見つからないのも当然です。倭国大乱は、九州の南の島々で起きていたからです。今後、南西諸島の考古学的研究が進めば、倭国大乱の痕跡が発見されるかもしれません。
倭国大乱を収めたのが、鬼道(占い?)を得意とする卑弥呼を擁する邪馬台国軍でした。卑弥呼自身は戦力を持ちませんが、卑弥呼が選んだ戦略を基に、邪馬台国軍が最終的に勝利したと考えます。ひょっとすると、占いによる嵐や台風などの海の情報を巧みに利用したのかもしれません。
邪馬台国を奄美大島だと考えると、色々なことに辻褄が合ってきます。この空想考古学が、歴史的事実になる日も近いかも(笑)。