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邪馬台国はどこ?#4 邪馬台国・新潟説
邪馬台国の所在地も、エジプト、沖縄、インドネシア(ジャワ島)と来て、今回はやっと本州ですが、本命の近畿地方ではなく新潟です。この説は、前にも紹介した『珍説・奇説の邪馬台国』岩田一平著(講談社)に詳しく載っています。
新潟県・栃尾市に邪馬台国があったと主張しているのは、栃尾市に住む桐生源一さんです。桐生さんは栃尾市で生まれましたが、栃尾市は平成の大合併により、2006年に長岡市に編入されて今はありません。旧栃尾市は、織物の町として知られていました。歴史は古く、第11代・垂仁天皇の皇子が栃尾郷高志の国造となり、その妃が天然繭から紬を織ったのが、ここでの織物の始まりと言われています。魏志倭人伝には、絹の記述もあります。
魏志倭人伝には、倭人が「人性酒を嗜む」という記述があります。倭人は、生来酒が好きだということです。倭以外では、「民族性として酒が好き」という記述は、弁辰条に「俗は歌舞・飲酒を喜ぶ」というのがあるくらいです。もちろん、新潟県は銘酒の宝庫ともいうべき土地柄ですし、「酒好き」の人も多いでしょう。しかし、歴史書に”倭人は酒好きだ”と書かれるくらいですから、これがその当時の認識だったのでしょう。
桐生氏は、栃尾が邪馬台国の中心だったという説を提唱しています。10世紀の『和名抄』では、旧栃尾市の辺りは夜麻郡と記されているそうです。中国の春秋戦国時代、越が呉を倒しますが、楚に滅ぼされてしまいます。そのため、越の難民がボートピープルとなって、各地に流亡したと桐生氏は考えました。その説によると、南に行った越人は越南(ベトナム)人となり、北陸に流れ着いた越人は夜麻越(ヤマエツ)人となったそうです。また、北陸地方は古代においては、高志(越)と呼ばれていました。
著書『「邪馬台国」はなかった』で古田武彦氏は、邪馬臺国ではなく、邪馬壹国とすべきだと主張しました。ヤマタイではなく、正しくはヤマイチであるとの主張です。このことを受けて、桐生氏は邪馬壹国は、ヤマイツ国であり、新潟人にとってはヤマエツ国であると主張します。それは、ネイティブ新潟人はイとエの区別がつかないためだそうです。
魏志倭人伝には、卑弥呼の跡を継いだ壱与が、魏に孔青大勾珠などを朝貢したとあります。この孔青大勾珠は、翡翠の勾玉ではなかったかと考えられています。ヒスイは、古代より珍重されてきた石ですが、日本の産地は新潟県の糸魚川付近に限られています。今年世界歴史遺産になった三内丸山遺跡から出土した大珠も、糸魚川産のヒスイでした。壱与は、糸魚川産のヒスイを魏に献上したのではないか。そうとすれば、邪馬台国が北陸にあったとしても、不自然ではない。というのが桐生氏の主張です。
日本の国鳥はキジ、国蝶はアサギマダラ、それでは日本の国石をご存知でしょうか。最近設定されたのですが、日本の国石は翡翠だそうです。2016(平成28)年9月、日本鉱物科学会により日本を代表する国石として糸魚川ゆかりのヒスイが選ばれました。