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科学エッセイ分冊 考古学編

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考古学関連の記事をまとめました。
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#考古学

空想考古学・邪馬台国はココだ!#13 魏志倭人伝と人類学

邪馬台国論争で、常に問題になるのは、魏志倭人伝に書かれた”文字情報”です。私はこの文字情報が正しいという前提の下で、この空想考古学の論理を組み立てています。しかし、多くの研究は、自分の都合の良いように文字情報の意味を曲解したり、改竄しています。邪馬台国畿内説では、”方向”を間違いだと主張していますし、邪馬台国九州説では”距離”を胡麻化しています。 手前味噌になりますが、空想考古学の『邪馬台国・奄美大島説』では魏志倭人伝の情報を一切捻じ曲げていません。例えば、魏志倭人伝に書か

空想考古学・邪馬台国はココだ!#9 邪馬台国の末裔

 今回は、邪馬台国そのものではなく、邪馬台国の末裔(かもしれない)勢力のお話です。こんな自由な発想ができるところが、空想考古学の良さだと思います。  継体天皇は、日本の第26代天皇ですが、その即位の仕方がそれまでの天皇と大きく違っています。継体天皇の出自がちょっと謎なのですが、『記紀』によれば、応神天皇(第15代天皇)の来孫(5代目の子孫)であり、日本書紀では越前国、古事記では近江国を治めていたと書かれています。この辺りの記述も曖昧です。  そもそも、2代前の祖父ならわか

空想考古学・邪馬台国はココだ!(番外編) 邪馬台国前史と上野原遺跡

 上野原遺跡は、鹿児島県霧島市国分上野原縄文の森にある縄文時代早期から近世にかけての複合遺跡です。上野原遺跡では、古いものでは9,500年前の竪穴住居跡が52軒も発掘されています。現在、遺跡の周辺は、鹿児島県上野原縄文の森と呼ばれる県営公園として整備されています。私は、この遺跡が邪馬台国成立に関係があると睨んでいます。  今回は邪馬台国成立までの歴史を空想したいと思います。今から約1万年前、南方からやって来た海洋民族(海の民)は、航海をしながら沖縄から南西諸島にその勢力範囲

空想考古学・邪馬台国はココだ!(番外編) 邪馬台国と淡路島

 今回は、魏志倭人伝から少し離れて、邪馬台国と古事記の関係について空想したいと思います。古事記はご存知のように、魏志倭人伝よりずっと後の歴史書ですので、直接の関係はありません。しかし大和王権が多少なりとも邪馬台国の影響を受けているなら、その痕跡が古事記の中に残っている可能性(?)があります。  古事記の最初の部分で有名なのが「国生み」の場面です。イザナギとイザナミの尊の二柱が協力して、”日本列島”を作ります。最初に作成に成功した島は「淡路島」です。日本で一番大きな島は本州で

空想考古学・邪馬台国はココだ!#7 南方系?

 邪馬台国の場所の同定では、距離や方位ばかりが議論されますが、邪馬台国(女王国)の風俗や習慣等も見落としてはならない重要なポイントです。  まずは、入れ墨の風習です。『男子無大小 皆黥面文身 ( 男子は大小の区別なく、みな顔や体に入墨をする)』の記述のように、魏志倭人伝には入れ墨のことが何ヶ所にも書かれています。これは当時の歴史家が中国とは異なる風習に注目していたためです。奄美大島では、明治政府に禁止される明治の初期まで、入れ墨の風習が残っていました。ただし、入れ墨をするの

空想考古学・邪馬台国はココだ!(妄想編) 『倭国』の由来について

 今回は、倭国の由来についての私の妄想をお話しします。まずは倭国の基礎情報ですが、例によって最初はWikiのパクリです(^_^;)。  倭国とは、古代の中国の諸王朝やその周辺諸国が、当時日本列島にあった政治勢力・国家を指して用いた呼称です。この倭国および倭国王の勢力範囲に関しては、諸説あります。このころの日本には、広範囲の地域を掌握した王権が存在せず、統一された文字も無かったので、文字としての当時の記録がありません。自分たちの国の事なのに、ご先祖自身によるご先祖様の記録は無

空想考古学・邪馬台国はココだ!#3 総合的に考えると、ココしかありません!

ずいぶんと結論を先延ばしにしてきましたが、今回は結論をズバリ言ってしまいます。私の考える邪馬台国は、奄美大島です。この結論に達した経緯の概要を今回は紹介します。 これ以後に紹介する邪馬台国・奄美大島説は私のオリジナルですが、私以前に奄美大島説を唱えていた人がいます。それは、古代史家の小林惠子さんです。小林さんは著書『古代倭王の正体ー海を越えてきた覇者たちの興亡』(祥伝社)で、自説を展開しています。この中では、当時の東アジア情勢を考慮して、グローバルな視点で邪馬台国を奄美大島

空想考古学・邪馬台国はココだ!#2 『魏志倭人伝』解釈の違和感

 「群盲、象を撫でる」という諺があります。この諺は、「大勢の盲人が象の体を撫でると、各々が自分の触れた部分の印象からしか象を把握できず、象の全体像についてはわからないということから、 平凡な人間には偉大な人物や大事業などの一部分に触れただけでは、正しい評価をしたり、全体を見通したりはできないということ」です。現在の邪馬台国論争は、この諺と同じ状態に陥っている気がします。  魏志倭人伝は、有名な次の一節から始まります。 『倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑。舊百餘國、漢時

邪馬台国はどこ? #3 インドネシア・ジャワ島説

 邪馬台国の場所に関する記事を以前に2つほど書きました。最初はエジプト説、次は沖縄説です。どちらも安易には信じ難い説ですが、まだまだ珍説・奇説はあります。今回紹介するのは、邪馬台国・インドネシア説です。  邪馬台国・インドネシア説を唱えたのは、内田吟風さんです。この説は、下記にリンクを張った『珍説・奇説の邪馬台国』(岩田一平著)で紹介されています。内田さんは、明治40(1907)年生まれで、京都帝国大学史学科を卒業し、神戸大学、佛教大学、龍谷大学で教授を歴任し、神戸大学の名

前方後円墳は、英語でなんて言うの?

 前方後円墳の"前方後円”の語は、江戸時代の国学者蒲生君平(がもうくんぺい)が19世紀初めに著した『山陵志』で初めて使われました。寛政の三奇人・蒲生君平は、各地に残る「車塚」という名称から、前方後円墳は宮車の形を模倣したものだと考え、方形(四角)部分が車の前だと考えました。しかし現在では、古墳時代にそのような車は、日本には存在しなかったと考えられています。  このような「四角が前で、丸が後ろ」の話は、蒲生君平までは覚えていなくても、社会や日本史の授業で聞いたことがあると思い

大発見!? 巨大な前方後円墳!!

 グーグルマップを眺めていたら、偶然、前方後円墳に見える地形を発見しました。場所は福岡県朝倉市です。前方後円墳に見えるこの山は、前方部が北側、後円部が南側を向いています。また、後円部の中心には秋月小学校の校舎とグラウンドがすっぽりと収まっています。この山地形が前方後円墳だと仮定すると、墳丘長は約750 mにもなります。これが本当に古墳なら、歴史的な大発見です。  日本最大の前方後円墳は、仁徳天皇陵と呼ばれている大山古墳(だいせんこふん)です。大阪府堺市堺区大仙町にあるこの古