見出し画像

人生初の海外旅行でインドを選んだら、予想外の結末が待っていた

卒業旅行の季節が近づいている。コロナウイルスの影響による行動制限がだいぶ緩和され、思い出作りを楽しみにしている方も多いのではないかと思う。
今回は、皆様の卒業旅行を平和に終えて欲しいという願いから、僕自身の恥ずかしい経験をさらしたいと思う…。

僕は14年前の3月に卒業旅行の機会を持った。当時23歳だった。
僕にとって「人生初」の海外旅行だったのだ。

初の海外旅行の地に選んだのは「インド」。
「インドへ行けば人生観が変わる」という話を昔からよく聞いていたし、長澤まさみ主演の「ガンジス川でバタフライ」というドラマを見て、「僕もガンジス川に飛び込んでみたい」と何故か思った。

本当に軽い気持ちでインドを選んだのだ。

2008年当時、今とは異なりスマホもなければ、wifiなんて当然ない。インドでクレカは普及していないし、現地のATMを使えるキャッシュカードもない。
そして、当時の僕には英語力もなかった。無いもの尽くしだった

今思えば、初の海外旅行にしては圧倒的に無謀な挑戦だったが、友人との2人旅ということもあり、僕自身に一切の不安はなく、むしろ楽しみしかなかった。大学のサークルで放送研究会に所属していたこともあり、「インドのドキュメンタリー作品を作ってやるぞ!」くらいの軽いノリだったと思う。

その後インドで起こる悲劇への予感は皆無だった…。

さて、やたら長い日記なのに写真がほとんど出てこない。理由は後で分かるので、私自身の感情の変化を楽しんでいただければと思う。また、臨場感を残すために2008年当時に書いた日記をほぼそのまま掲載しているため、読みづらい・無礼な表現が多くあるかと思うが、予めご容赦いただきたい。

3月10日(0日目)予想だにしない悪夢のスタート

インドへ向かう機内では、日本人女性4人が卒業旅行でツアーに参加していた。
僕はそんな女性4人を見て、「バックパッカーの僕に比べて、ツアーなんて手ぬるいぜ」と調子に乗っていた。世間知らずの馬鹿な23歳だった。

午前1時45分インディラ・ガンディー国際空港着。

我々はホテルを予約していなかった。
「地球の歩き方」には「ホテルを予約していない場合、夜中に空港を出るな」と記載がある。にもかかわらず、朝まで我慢できなかった我々は早々に空港を出ることにした。

空港の外はホテルやタクシー関係者と思われる多数のインド人が旅行客に群がり、早くもカオスな雰囲気が漂う。我々のテンションはさらに高まる。

そんな中、マイクロバスの運転手らしい若い男に話しかけられる。
「デリーまで60Rs(当時180円)でどうだ?」

安い!即決定!

我々二人は意気揚々と車に乗り込んだ。運転手以外にもう一名乗ってきて、デリーへ向けて出発した。

盛り上がる車内。
我々が「インドは初めて」と言うと、彼らは優しく色々教えてくれた(英語を話せない僕はよく解っていない)。

と、猛スピードで走っていた車が急に90度くらいの勢いで右に曲がろうとしたのだ。
交通事故でいきなり死ぬかと思った…

高速道路を逆走してくる車と衝突しかけたとのこと…。
運転手によれば、インドではよくあることらしい…。

そして40分後、首都のニューデリー駅に到着。
車を降りると周りに何もない。てか真っ暗…

(これが首都の駅か!?なんかまずい雰囲気じゃないか…)

運転手「僕がすぐ近くのホテルへ案内するぜ」

(「地球の歩き方」には騙しの定番として、こういう案内は絶対に乗るなと書いてあった…)

我々は「メインバザール(ニューデリー1の安宿街)に連れて行ってくれ」と頼み、車に再度乗り込んで移動することにした

(5分後)

運「メインバザールに着いたぜ!」

(周囲に何もないし、灯りすらない)

これは埒が開かない雰囲気なので、我々は「ここで降ろしてくれ!歩くわ!」と告げる。

運「僕たちは構わないぜ!お前たちの自由だ!」と言って車を止める。
運「料金は二人で2400Rsだ」

我々「?????????????えっ60だろ!?」

運「1キロ60Rsという意味だぜ!20キロ走ったんだ!20キロ×60Rs×2人=2400Rsだ」

「ありえない」とキレる友人。

口論すること5分。運転手は誰かに電話をかけたりもしたが、基本的には金額交渉でもめる。

運転手の相棒は「フレンドリー、フレンドリー」と言っている。

ところがだ。
「60Rsだ!」と強く主張する我々にキレた運転手が友人の首を掴む。

(これはやばい…)

ここで暗闇から第三の男性がいきなり出てくる。
どこに潜んでいたのかは全くの謎だが、「僕は警察官だ!」と言い出す。

警「どうしたんだ!?」

我々「あいつが空港で60Rsと言ったくせに2400Rs払えと言うんだ」

警察官に何かを話す運転手。

そしたらだ。警察官がいきなり運転手を殴ったのだ。
全く理解できない展開に、僕の心臓の鼓動はどんどん速くなっていく。

警「インフォメーションセンターに連れて行くから、そこでホテルを紹介してやるよ」

(我々「こいつもぼったくろうとしてるんじゃね!?てか、警察官て嘘じゃね…」)

我々は「大丈夫。歩いて行くよ」と警察官に背を向けた。

我々の判断に納得がいかなかったのか、警察官が両手を横に広げながら、殴った運転手の方へ寄って行った隙に…

我々は目を合わせて頷き、60Rsを投げて猛然と逃げた。本気でダッシュした!

当然、車がすぐに追いかけてきた。
だが、幸いなことに道が暗すぎたからか、車が我々を一瞬で追い越してしまう。

その隙に我々は逆走し、車から少しでも遠くへと逃げる。

車から運転手が降りて追いかけてくるのが分かる。

とにかくダッシュで逃げる、ところが僕はこけてしまった。
しかも、やばいことにメガネを落とした…

でも探している暇はない。とりあえず逃げる!

5分ほどして何とか逃げ切ったらしい。

でもあたりは引き続き真っ暗で本当に道すら見えない。メガネを探しようがない…。

ただし、ホームレスや薬物中毒者や野良犬がうろうろしていることが次第に分かってくる。

「ここにいたらまずい。空港へ戻ろう」と二人。

そして、リキシャーと呼ばれる3輪タクシーを拾って空港行きを告げる。

ところが乗って数分。停車するリキシャー。
「降りろ!ガス欠だ!」

再びリキシャーを探す二人。
何とか次のリキシャーを捕まえ、250Rsで空港へ戻ることに成功する。

やっと明るい場所に戻ってこれたことで、少し安心する僕。

空港の休憩所で座っていると、係員に「血だらけでどうしたんだ?」と聞かれる。

さっき転んだ時に顔を地面にぶつけていたようだ。心が落ち着いたせいか、今更顔が痛いことに気づく。

とりあえずトイレに行くと、周りが僕をめちゃ見ている。

鏡を見てがく然…本当に血だらけだったのだ。

(あー本当に最悪。もう日本に帰りたい…)

とは言え、旅は始まったばかりだ。凹みつつも地球の歩き方を読む。

すると、さっきの係員が来た。
「おっラールキラーだな!綺麗だぞ!インドを楽しめよ!」と笑顔で話しかけてくれた。

少し救われる。
こうして我々二人のインド旅行の幕は開けたのである。

3月11日(1日目)インドについて何も知らない絶望感

朝6時には空が明るくなり、空港を出てニューデリー行きのバスに乗る。

信じられない数のインド人がバスに乗ってくる(東急田園都市線の朝のラッシュがバスで起こっているような感じ)。

その中で外国人は我々二人のみで、なかなか怖い・・・

でもこのバスに乗っている人達は昨夜出会ったインド人とは異なり、心が広いような気がする。

バスの座席が空くと、「座れよ」と笑顔で肩を抱いて譲ってくれる。

「優しいな」とまた少し救われる。

1時間後ニューデリー駅に到着。

タージマハルへ行きたい我々は電車のチケットを欲してたのだが、地球の歩き方に載っている外国人用専用のチケットオフィスが見当たらない。
そこで、インド人含めて誰でも買えそうなチケットカウンターへ行くことにする。

何とかチケット情報を教えてもらい、後は金を払うだけと思っていたら、係員から「君たちはここでチケットを買えない。2階へ行け」と言われる。

「どこに2階あるねん…今工事中やん…」と途方に暮れる我々

実はニューデリー駅にはビルが2つあり、我々がいるビル(工事中)とは反対のビルを指していたのだった。ニューデリー駅には改札がないため、自由自在に駅構内を動ける。しかしそれを知らない我々二人は線路越しに別のビルがあるなんて、その時点では気づきもしなかった…。我々がそれを知るのは6日目のことであった(苦笑)

どうしようもなくなった我々2人は警備員らしい服装のインド人に質問しようとした。

そこに別のインド人が話しかけてきて、「外国人専用オフィスだろ?今工事中で別の場所にあるんだよ、案内してやる」と言ってきた。

たしかに工事中…。「信じてみるか」と二人

男性が運転する車に乗せられる。
「インドは初めてか?近いうちに祭りあるぜ」と色々話しかけてくる。

後で気づいたが、「初めて」という単語を安易に使うのは本当に要注意だ。
初めてと分かった途端に、出会ったインド人は嘘を平気で付くし、適当にごまかしてくる。

そして、案の定騙された。

着いたのは大通りから外れた狭い路地裏にある怪しい旅行会社だった。
「DTTDC」と書いてある。

実はこの名前、インドでは超有名らしく公的機関の旅行案内所なのだが、悪徳旅行会社がこの名前を勝手に使いまくっていると地球の歩き方に書いてあった…。

だまされそうだなと気づきつつも、とりあえず中に入る。
店のおじさんは東洋大に留学していたらしく、そこそこ日本語が上手だった。

行きたいところを全部伝えると、すべての日程の電車とホテルを予約してやると言い出す。

金額にして一人300ドル。
1泊300ドルでぼったくられた人が、地球の歩き方にバンバン出てきたのに比べれば、全日程でこの金額なら安い方か。

しかも、我々はインドについて知らなさすぎるし、ちょっと落ち着きたいという気持ちが正直あった。

そこで、彼のアレンジツアーに申し込むことにした(実際は半分くらいぼったくられていたことを後で計算して知る)

チケットの手配を待っている間に、街角の路面店で20Rsの食事をする。

初のインド料理は美味かった。
チャイを無料でプレゼントされ、騙されなかっただけなのに泣きそうになる。

とりあえず少しだけ幸せを手にした心境だった。昨夜から騙され続けて心底疲れていた。

朝食を終えると、旅行会社から全てのチケットを受け取る。

行先はアーグラー→ジャイプル→ジャイサルメール→デリー→ハリドワールだ。

ジャイプルまでは専用の運転手が付くとのこと。

午後0時、インド人の運転手とともに旅が始まった。

運転手は38歳のおじさん。
奥さん2人に、21歳の彼女がいるらしい。

車はスタートして間も無く停車し、一人の若い男が乗ってくる。

彼は21歳で彼女がいないことが悩みらしい。
運転手との関係は友達らしいが、詳細はよく分らない。

男4人の車中のため、(英語が話せなくても)下ネタがあれば何となく盛り上がる。

途中マハラジャモーテルというレストランで休憩。
普通に高級店なのか値段が高い。

トイレに行ったところ、やけに優しく接してくるおじさんがいて、洗った手を拭く紙までくれた。
「なんやこいつ?」と思っていたらチップを要求してきた。

初海外とは言え、インドでチップが当たり前なのは理解していたが、トイレでこういうサービスと職業があることに驚いた。

二人で一人前の料理しか頼まなかったからか、ウェイターが「他に注文はないか」と何度も絡んでくるのが鬱陶しかったが、ここの店員達は単にフレンドリーなナイスガイというだけだった。
ネパールから出稼ぎに来ている店員がいて、彼とは下ネタで大盛り上がりだった。

そして、フレンドリーに接してくれたお礼として、日本製のボールペンをあげたら、とても喜んでくれたのは良い思い出だ。

休憩を終えて車が走り出すと、運転手が「アーグラーは都市入場料がかかって、一人650Rs必要なんだよ」と言い出した。

意味がわからなくて、とりあえずチケットのような紙をもらったけど、騙されていたと後で気づく。

そして世界遺産のタージマハルに到着。我々はタージマハルでの観光を本当に楽しみにしていたのだ。

ところが、車を降りるとインド人の絡み方は尋常じゃないほどしつこい。

インド人恐怖症になりそうなくらい…というか、この時点で僕は恐怖症になっていた。
本当にうざかった。ずっと付いてくる。

そしてタージマハルの入場口に着く。

ここで友人が「さっきの650Rsってタージマハルの入場券なんじゃない!?一回入口で見せようよ」と提案してくれた。

そして入口で見せると「これはバスのチケットだよ」と言われた…
(あの運転手め。我々を騙して自分のこづかいにしようとしていたのか?)

仕方なく一人750Rsの入場料を払う

その後も入口で荷物を有料で預けないとダメとか、靴を脱がないとダメな場所があって、そこでも金を払えと言われ、段々げんなりしてくる

タージマハル自体はすごかったが、僕自身に心の余裕が無く感動は微塵もなかった…。

そして帰り際、偶然にも飛行機で出会った日本人女性4人組とすれちがった。彼女たちの弾けんばかりの笑顔を見て、インドを楽しんでいるのが十分に伝わって来た。
一方の我々ときたら、旅の初日から既にボロボロだった…。

タージマハルを出ると、運転手が「飲みに行こう」と言い出した。
疲労が激しかったため、迷うことなく速攻で断り、ホテルで就寝したのであった。

3月12日(2日目)金に翻弄されイライラが止まらない

相変わらず街中のインド人の絡みがうざいのと、運転手のおじさんに「ジャイプルも入場料600Rs必要なんだ」と言われ、「嘘だろ」と思ったが、細かいコミュニケーションが成り立たないので諦めて支払った。

この2つ以外は順調で、特に助手席に座る若者とは、「指差し会話帳ヒンディー語」を持っていったおかげで、楽しく盛り上がった。

また、万里の長城みたいな場所は景色の美しさに感動したし、そこそこ金持ちのインド人学生と日本円とインドルピーを交換しようということで盛り上がった。

「ここは騙し返すチャンスだ」と張り切ったが、40Rsつまり100円儲かって喜ぶ自分に虚しさしか感じなかった。

その後、ジャイプル中心地に入り、おじさん運転手・若者と別れる。

チップが安いと文句を付けてきて、我々の怒りが頂点に達したが、金さえ出せば笑顔になることもあり、もはや諦めの境地に達していた。

その後は初めての自由行動。
地球の歩き方に載っているレストランでマサドサを食す。

この店は接客も良くて、店員も愛想が良かった。が、会計の時にうっかりチップ抜きの金額を出したら態度が一変…。店員の顔が怒りに満ちていた。

単に忘れていたとは言え、金への執着の強さは僕の人生では無縁の経験だった。

その後、夜のジャイプルの屋台街へ行き、チャイを頼む。
暑い場所で熱いチャイなのにめっちゃ美味しい。

昨日の朝もそうだったが、屋台のおじさんはすごく愛想が良い。

屋台街は似たような店ばかりで、競争する気が無いのか、する必要が無いのかは分からないが、レストランとは異なり、金の話から開放されて穏やかな時が流れた。

さて、夜行列車に乗るためにジャイプル駅へ移動する。
ここで友人と初めて別行動を取ることにした。

僕は駅で座って待っていると、周りにいるインド人4人に話しかけられた。1時間半近く話しただろうか。

僕の手相はインドでは幸せな手相らしく、セクシーボーイと褒めちぎられた。

それにしても英語はすごい。世界を繋いでくれる感覚を持った。

話せるように練習しなきゃ。今回一番感じた未来への宿題だった。

そして寝台列車を待つホームへ移動すると、野グソをしているインド人が普通にいる。
さすが紙いらずの国インドだと、僕はカルチャーショックを受けたのだった。

さて列車に乗ると、既に我々の予約席で寝ているインド人がいた…。

注意をすると、彼らは予約席どころか乗車券も持っておらず無銭乗車しているようだった。

これもインドでは当たり前なのか…

何とか移動させて寝床を確保する。

我々のイライラは収まらないが、明日はいよいよ砂漠の地ジャイサルメールだ!人生初の砂漠に胸が躍る。

3月13日(3日目)ちびっこ、お前もか!?

翌朝、目が覚めて友人と二段ベッドの上下を交換する。

下で寝てみる僕。寝ているとなんか狭いことに気づく…。寝返りができないのだ。

目を開けると、僕のベッドにおじさん二人が座っている。ずうずうしいぞ、インド人よ。

インド人はとにかく人見知りや遠慮が皆無のようだ。

電車で初めて会った人同士なのに、めちゃ盛り上がって大爆笑しているし、自分の席でもないのに、他の人を呼んで座らせようとする。

そんなことを考えていると、停車中の駅のホームに別の電車が入ってきて、向こうの車内にいるちびっこ数人が笑顔で僕達に手をふってきた。

かわいいから写真を撮ろうと思いカメラを向けると、「マネー、マネー」と言ってきた。

これは流石に辛かった。ちびっこも金目当てで絡んでくるのか。トラウマというのは大袈裟だが、僕は積極的にちびっこと絡む勇気を失った。

電車が出発して14時間後、砂漠の街ジャイサルメールに着いた。
ジャイサルメールは街自体が砂色の城下町というか、要塞のような雰囲気で、趣のある街を歩くだけで楽しかった。

この日は酷暑で、屋台で買ったコーラがとにかく美味かったが、夕方には屋上で食事をしても全然暑くないという砂漠地方ならではの気候を体験した。

そして夕食後に散歩していると、とある店で火事が起こり皆が騒いでいる。残念ながら全焼で、商品も丸焦げになっていた…。

宿泊したホテルのシャワーは冷たい水しか出ない。インドの安宿では普通なのだろう。
そして、初めて衣服を手洗いで洗濯をした。まさにバックパッカーを体現しているようで楽しかった。

インドは夜に酒を飲む文化もあまり無いため、今夜も早めに就寝することにする。

3月14日(4日目)砂漠に行けば、全てがどうでも良くなる

翌朝、昨夜の火事の店を通ると、テントを立てて営業を開始していた。
どうやって商品を集めてきたのだろう?

インド人の底力みたいなものを感じたが、この力が適切に働いている感じは受けなかった。
この店に限らず、経済生活の違和感というか不平等さみたいなものを感じる機会が少なからずあったからだ。
カースト制というインド特有の身分制度の影響なのかもしれない。

昼からは砂漠の村、クーリー村へ移動する。が、移動中の車で腹痛に襲われる。

ついに水のような下痢が始まったのだ…。インド定番の食あたりだ。

この日だけで何回トイレへ行ったことか…。
4日目にしてトイレットペーパーのストックが早くも尽きそうだ。
(インドはトイレに紙がないため、日本から持参したトイレットペーパーを使うことになってしまい、減りがもともと早かったのだ)

だが無理は言ってられない。砂漠に行かねばならないのだ。
いざラクダに乗って砂漠へ。ラクダに乗ってみると、腰がとにかく痛くてつらい…

ラクダ乗りの兄ちゃんは「日本人はチップを沢山くれる。僕もお前もハッピー」と言っている。悪いが僕はアンハッピーだ。

本当にずうずうしい国民だ…。更にしんどくなる。

90分かけて砂漠へ到着するも、下痢とラクダの揺れで腹痛が限界に…。

ということで、砂漠でうんこした。砂漠を目の前に開放感はバツグンだった。

周りからは明らかに見えていただろうが、どうでも良かった。
夕暮れ時の広大な砂漠にいると、自分が無のような感覚に陥った。人に笑われようが、全く気にならなかった

夜になり、宿泊客向けに歓迎ダンスパーティーが催された。
満天の星空のもと、明るい演奏と美味しい食事。

本来であれば幸せに包まれて眠るはずが、下痢による脱水症状と足腰の疲れで全く眠れなかった。

そもそも部屋がひどい。

部屋のベッドは草の上に布で覆っただけ。アルプスの少女ハイジのようだが、テレビで見た柔らかさは微塵もなく、凸凹が腰へのダメージを加速する。

入り口の鍵は壊れていて、友人の歯ブラシを使って簡易鍵を作る始末。

電気は発電式なのか、10時くらいには停電してしまった。部屋の通気性が悪くてクソ暑い。

扉を開けて寝たいくらいだが、野犬が外でうーうー鳴いていて怖くて無理だった。

3月15日(5日目)ついにインド人の仲間入り!?

僕はついにインド人の仲間入りを果たす。

日本から持ってきたトイレットペーパーが尽きたので左手でケツを拭いたのだ。
シャワーを浴びる直前だったので抵抗はなかったが、色んなことがどうでも良くなり始めている

16時発の電車でいざデリーへ戻る。

ジャイサルメールの街は煉瓦造りで建物は素敵だし、デリーに比べて田舎であり、経済格差が緩いからか、人も穏やかでやさしい人が多かった。
もっとインド人を信用して絡んでみるべきだったと多少の後悔はあった。

出発して間もなく、ジャイサルメールの市場で買ったブドウを食べることにした。

我々の予約シートにはインド人が図々しく座っていたのだが、ブドウをそのまま食べようとしたら、「そのまま食べるのは危ないぞ。洗ってやる」と優しく教えてくれた。

が、その水はミネラルウォーターではなかった。逆に心配になったが、すでに腹も壊していたし、そのブドウを美味しく食べた。

出発して3時間。我々の席の周りにはインド人男性が溢れかえっており、横にいたフランス人女性にデレデレで話しまくっていた。

とにかく邪魔だ…。この状況が23時まで更に4時間も続いてしまう。

そのうち、ジョードプルという大都市に着くと、ずいぶん人が降りた。

(やっと眠れるか)

しかし、このままスパッと終わる国ではない。

電車が出発したかと思ったのも束の間、なぜかジョードプル駅へ戻っていく。

そして、電車の外にいるインド人と、まだ電車に残っていたインド人が窓越しに何かを話している。
「とりあえず乗れよ!」的なサインを乗客が出している雰囲気は伝わってくる。

すると、僕の予約席に図々しく座ってたインド人が、「お前どけ」と言わんばかりに僕を反対の席にどかしたのだ。

何が起きたか分からない僕。ただ自分の予約席が消えたことだけはわかった。

向かいの僕の座席を見ると、次から次へと小さな窓枠からインド人が座っていくではないか…

3段式ベッドが全て、予約とは無縁のインド人であふれかえっている。

すると、3段目を予約しているフランス人男性が本気でキレた。
怒りの形相でインド人を3段目から排除したのだ。

これに便乗して、我々二人も座席からインド人の排除を試みた。

何とか足を伸ばして眠れる場所を確保したものの、僕の横に無理やり足を入れて座ろうとするインド人。
必死に守って座らせない・眠らせない。

しかし、これでは僕がいつまで経っても眠れないので諦めて就寝する…

やはりインド人を好きになれない。

3月16日(6日目)本気のインドが人生最大の試練を与える

ジャイサルメールを出発して18時間。デリーに着く。午前10時になっていた。

デリーは人口が多いので尋常じゃなく絡まれるが、目を合わせずにガン無視するとそのうち消えていくことに気づいた。精神的なゆとりが一気に生まれた。

インドの地下鉄に乗ってみる。
改札を通る度に荷物チェックがあるのは鬱陶しいが、社内は綺麗で冷房も効いており、信じられないくらい快適だった。
日本の地下鉄と変わらない。

そして、ニューデリー駅に5日ぶりにやって来た。
親切なイスラム教のタクシー運転手のおかげで、初めて「本当」のメインバザールの場所が分かり、駅には別ビルがあることを知る。

自分達が情報不足の中で、無謀な行動を取っていたことを反省する。

メインバザールは外国人観光客が非常に多くて熱気がすごい。
コンタクトレンズ屋まであるし、凄く使い勝手が良いし、何より安い。

ステーキを300円も払わずに食える。
お土産もたくさん買えるし楽しかった。

その後はコンノートプレイスというデリー1の高級ショップ街に行く。
日本と変わらない都会感。

マックでさえ入り口に警備員がいる。

コンノートプレイスの中心には緑豊かな公園があるが、ここは金持ちしか入れないようだ。
ちょっと小汚いインド人と犬が入ってくると、すぐにつまみ出されていた。

我々にとっては過ごしやすいが、排他的空間の居心地はそれほど良くはなかった。

そんな中、一人のおじさんが話しかけてきた。靴磨きを商売にしているらしく日本人だから話しかけに来たのだろうが、あいにく我々二人はボロボロのスニーカーを履いていた。軽く旅の話をしたが、おじさんはすぐに去って行った。

晩ご飯は例のマックに行ってみた。せっかくなので、ベジタリアン向けのハンバーガーを食べたが、なかなか美味しかった。

食事を楽しんでいると、いきなりおじさんに話しかけられた。さっきの靴磨きのおじさんではないか。

なんと!僕の友人が「地球の歩き方」を公園に忘れていたのをわざわざ持ってきてくれたのだ。「こんな優しいインド人がいるのか」と感動したが、この優しさが後ほど奇跡を生むきっかけであったことをこの時点では知る由も無い

そして、これから悪夢が始まろうとしている電車へ向かう。

この電車に乗れば、ハリドワールというガンジス川の源流へつながる街に行ける。「ガンジス川でバタフライ」することを楽しみにしていた僕はワクワクが止まらなかった。

午後10時、オールドデリー駅。

私は3段目のベッドを予約していたので荷物をそこに置き、友達が予約した2段目のベッドの作成を10秒ほど手伝う。

その時だ。白シャツを着た男に一瞬話しかけれ、ベッドから目を離してしまった。

そして上を見上げた時には…
荷物がなかった…

そう盗まれたのだ…

すべての金銭、カメラを含む大半の電化製品、帰りの飛行機チケット、地球の歩き方

そしてパスポート…

すぐに白シャツ男を追いかけたが、荷物がラグビーのパスのように仲間と思われる男たちにパスされていくのが見えた。
人で埋め尽くされた駅のホームに出た時点で、犯人がどこにいるかを見分けることは不可能だった…

最悪だ…。日本に帰れないじゃないか。

ここまでの電車移動を通して、人の多さの割に治安が良かったことから、すっかり盗難への意識が薄れていたのだ。
そもそも論として、もっと荷物を小分けにするとか事前に出来たことはあっただろうが、初海外の僕はそんな対策とは無縁だった。

友達と相談し、ハリドワールに行くことを諦めて電車を降りる。
とりあえず今日はメインバザールで泊まることを決める。

メインバザールには警察もあるし、何より宿も多い。
とりあえず今日は遅いし、ホテルで対策を練って明日動こう。

心臓の鼓動がどんどん速くなっていく僕。

インドでの本当の戦いがいよいよ始まったのだ。

深夜23時にメインバザールに着く。

ところがだ…。なんと警察署に警官がいない…

いきなりミスった。今からオールドデリー駅に戻るにしても真っ暗でリスキーだった。

メインバザールの路上では「マリファナ、マリファナ」と叫ぶやつらが、我々に絡んできた。
路上のインド人が勧めてくるホテルを断ると「fxxk」と叫ばれるし雰囲気は最悪だ。

地球の歩き方で見つけた目的のホテルに着く。

ところが…
僕はパスポートを持っていないため、泊めてもらえない…

「パスポートを持っていなければ人間では無いんだよ」
宿の人にこう言われた時、事の重大さを強く認識したのだった

やばい、今日は野宿だろうか…

しかし宿の計らいで、ホテルにあるネットカフェで滞在しても良いと言ってもらえた。

警察にはここに滞在したと絶対に言わなければ、ソファで寝て良いぞと。

本当に神だ!おかげで明日以降にやるべきことの整理ができた。

情報整理の原動力になったのは「地球の歩き方」なのだが、これは、コンノートプレイスのマックに届けてくれたおじさんの「地球の歩き方」だ。
靴磨きのおじさん、本当にありがとう。

そして英語がろくに話せない僕の代わりに友人がパイプ役となって本当に助けてくれた。
感謝の気持ちと申し訳無さでいっぱいだった。

3月17日(7日目)いつまで経っても作られない書類

朝から屋上テラスで食事をするが、不安で食事が喉を通らない。

昨夜色々調べた結果、予定通りの飛行機に乗れる可能性が低いことを痛感していたのだ。

ひとりでインドに残る不安というよりは、大学の卒業式や、彼女との国内旅行など、思い出作りのイベントに参加できない悲しさに襲われていた。

とは言え、いよいよ帰国に向けた戦いが始まる。

まずはニューデリー駅近くの警察へ向かう。

しかし、いきなりつまずく…

「オールドデリー駅で盗まれたなら、ニューデリーの管轄外だ。オールドデリーへ行け」
門前払いに遭ってしまった。

「デリーの警察!?どこなんだよ…」と思いつつ、とりあえずオールドデリー駅に向かう。

ところが警察はあっさり見つかる。昨夜は暗くて気づかなかったが、駅の中にあったのだ。

そして昨夜ここへ来なかったことがやっかいな展開を生む。

「なぜ昨日来なかったのか?盗まれたのは嘘では?」という話になってしまったのだ。

そのため、日本大使館に提出が必要な盗難証明書(ポリスレポート)が発行されない。

何人もの警察官に同じ理由でキレられる…
本当に震えそうなくらい不安な3時間を過ごした。

ポリスレポートなしでは帰国の道が拓かれない。

日本大使館に電話したところ、戸籍謄本を今日中に日本から揃えて、明日朝に大使館へ来れば、20日の帰国便に間に合うかもしれないと言われた。

日本とインドの時差は3時間半。
現地時間11時。日本時間14時半。役所が閉まるまで、あと数時間。

そこで、速効親に電話して、戸籍謄本をFAXで日本大使館へ送ってもらうように依頼した。
父親はたまたま休みだったのか、車で片道2時間かけて戸籍謄本を取りに行ってくれた。奇跡は続く。

電話後、警察に戻ると優しい婦警さんが、僕向けの書類作成に取り掛かってくれた。
本当に泣きそうだった。

作成を待っている間に、私服警官らしきインド人2人が優しく接してくれた。ヒンディー語で数字の数え方を教えてくれたり、「お前は格好良いぞ」と言って笑わせてくれたり、「自分は孤独じゃない」と異国の地で実感できた。

一方で情けなかったのは、ポリスレポートの発行にあたり、盗まれた状況を英語でPCに打ち込めと言われたのだが、気が動転してまともに書けずにいると、見かねた警官が「My baggage was stolen … 」という感じで丁寧に英語のスペルを発音してくれ、僕はそのまま打ち込むことになってしまったのだ。

受験でいくら勉強しても、こういう時に使えなければ何の意味もない。

朝8時から待つこと6時間。
やっとポリスレポートをゲットした。

すぐに日本大使館へ移動し、必要書類の説明を受けたり、飛行機のチケットも現地の航空会社のオフィスに行けば、格安で再発行できることが分かった。

大使館の受付時間上、証明写真が間に合わなかったため、必要書類を提出することは出来なかったが、父親の奇跡のドライブスピードで戸籍謄本は大使館に届いていた。

帰国便に間に合うかもしれないという手応えを掴んだ意味では順調な滑り出しと言える。
その夜は証明写真を撮り、3日ぶりにシャワーを浴びて、まともなベッドで眠ることができた。

3月18日(8日目)デイアフタートゥモローに来い!?

朝9時に日本大使館へ行き、必要書類を提出する。

その際、同じように盗難にあった日本人と出会う。同じような状況に勇気をもらった。

提出して2時間後、「帰国のための渡航書」(帰国予定日を確認できる書類があればもらえるパスポート代わりの最強アイテム)が無事発行される。

友人が旅程表を旅に持ってきてくれていて助かった。

しかし、これだけで戦いは終わらない。
帰国のための渡航書に「出国許可」を押してもらう必要があるのだ。

大使館の人には「今日持って行っても、明日許可が出るとは限らない。それだけは予め理解しておいて欲しい」と言われた。

でも諦めはしない。明後日の帰国便を逃せば、いつ帰れるか分からない。

大使館を出て、出国許可を出す政府機関であるFRROへ向かった。

到着すると凄まじい数の人々。
ここは単に出国許可を出すだけの機関ではなかったのだ。色んな事情を持つ人が集まっている。

しかも15時に閉まるらしい…

着いた時間は12時半….。絶望感に襲われる…

14時になった。1時間に5人のペースでしか作業が進まない…

僕まであと17人も待っている。

本当に焦っていた…。僕は無一文だし、友人だってそこまでお金は残っていない。

19日に許可が下りずに、帰国便に乗れなければ航空券をどうやって買うんだろ…。

体が震えそうだった。

しかし、15時になっても閉まる気配はない。
その日に来た人全員を受け付けてくれるようだった。少し救われる。

そして僕の番になった。

受付の陽気な女性に「もしかしたらハンコ押すのに一週間かかるかもね」と笑顔で言われる。シャレだったとしても笑える精神状態ではなかった。

そして次のカウンター(ハンコを押すらしき人)へ向かう。

英語だが、とにかく早口でインドなまりが強くて、何を言ってるかさっぱり謎だった…

ただ、こう聞こえた…
「デイ・アフター・トゥモローに来い」

何!?20日に来いってことか?
それじゃ飛行機に間に合わないじゃないか!!

「なぜだ!?理由は?明日帰らなければならない」とつたない英語で頑張って詰め寄る。

しかし早口で何が言いたいか、よく分からない。

そして最後に「明日14時に来い」とだけ言われる。

さっぱりわからないが、「次の人を対応するから!」と言われてしまいどうしようもない。

今日は早く休んで、また明日頑張ろうと気持ちを切り替えるしかない。

帰りにネットカフェへ寄り、航空会社のオフィスの住所を確認する。
明日朝にチケットの再発行へ行くことを決め、快適な大使館周辺のチャイナタウンで中華料理を楽しんだ。

帰れない可能性の高さを実感し始めていたため、吹っ切れたというか、精神的なつらさは薄れ、皮肉にもインドを楽しみ始めている感覚も多少はあった。

おまけにホテルの大部屋にはアフガニスタンからインドへ来た若者がいて、アフガニスタンに住んでいた頃、学校で銃乱射事件に遭ったという話を聞いた。

最速で日本に帰りたくて不安だったが、悩んでいる次元の小ささに恥ずかしさを覚えた

3月19日(9日目)運命の分かれ道

朝、ホテルのテラスで本を読む日本人女性に出会う。
彼女はバックパッカーで、オーストラリアにワーホリに出た後、インドに一人で来たとのこと。

本当にたくましい。
自分がいかに何もできない人間で弱い存在なのかを痛感した。

朝10時、航空券の再発行のため、エアチャイナへ行く。
事情を説明すると、航空券のコピーを取り寄せろとのこと。

すぐに国際電話で日本の旅行代理店に連絡してゲットする。

これさえあれば1万円でチケットを再発行出来る。

ところがだ…
そのチケットには「date of issue」が記載されていないとのこと…

これが本当に厄介だった。
代理店ではなく航空会社にしか記載された書類がなかったのだ。

旅行代理店→チケット予約センター→エアチャイナ日本オフィス→エアチャイナインドオフィスまで上手く連携して初めて、再発行されたチケットが手に入るのだ。

しかし、いつまで経ってもインドオフィスに電話が来なかった。

いつの間にか13時になっていた…。
14時にはFRROに行かねばならない。

エアチャイナには16時に再び戻ることを約束して、FRROへ移動する。

仮に航空券が取れなかった場合を想定して、MUFGのデリー支店に電話し、友人が持っていたキャッシュカードをインドで使えるのかを確認する。
(僕は無一文なので、当然キャッシュカードもない)

答えはあっさりノーだった…。

このままでは今日出国許可が下りない場合、日本に帰る飛行機のチケットを買うお金がリアルにない。
窮地に追い込まれた…。

そしてFRROに到着。またも長蛇の列。

あっという間に15時になる。ここで1つの選択に迫られる。

16時までにエアチャイナへ行かなければ、再発行されたチケットは受け取れない。

しかしFRROから離れることも出来ない。どうする!?

ここで僕は友人にこう告げた。
僕「エアチャイナに行ってくれないかな?」
友「えっ?でもどうやって連絡取るの!?」

僕は携帯電話も失っていた。

僕「僕はここに残るので行ってきてくれないかな?」

友「でも英語はどうするの!?昨日みたいに中途半端にしか聞き取れなかったら…」

僕「言葉は何とかする!でもチケットが今日無ければ、お金がもう残り少ないし、ここで許可を取って帰国できるのはずっと先になってしまう…」

友「分かった。連絡はヤシュワンにネットカフェがあるし、じょうでんはそこに行けば良い。僕はコンノートプレイスでもどこでも探すよ。あとはお互いがじょうでんの実家に連絡し合っていこう!」

僕「分かった。最悪は空港で待ち合わせだね。もし航空券が取れなかったら気をつけて日本に帰ってね。本当にありがとう!」

友「うん行ってくるよ。17時までに間に合うならここに戻ってくる。じゃあ行ってくる」

そして二人は別れた。

その後1時間は動きがなかった。

その間も事情を知る色々な人に励まされた。
昨日知り合った外国人の若者には「リラックスしろ!きっと大丈夫だから」と握手をしてくれたり。

もう何日も審査を受けているのに許可をもらえない日本人男性には「何かあったら、メインバザールにいるからおいで。多少は助けになれると思う。幸運を祈っている」と本気で心配してくれたり。

アメリカ人の男性が「こっちで早めに審査してくれるかも」と呼んでくれたり。

誰かに何かの許可が起きれば、拍手が起きたりもした。妙な一体感があった。

国を越えた人々の優しさに救われた。この旅で一番幸せな時間だったかもしれない。

そんな中、16時15分にヤマがいきなり動いた。

「今日の帰国便に乗りたい日本人が2人いる」
理由は全く分からないが、FRROが急ぎ処理してくれることになったのだ。

「出国許可がもらえるかもしれない」

そして16時45分。
僕が担当者に「今夜の航空券はどれだ?」と詰められていたその時…

友達が左手に航空券を掲げて帰ってきたのだ。本当にびっくりした。

一気に形勢は逆転した。
航空券という証拠によって、17時に出国許可が下りたのだ。

こうして僕は予定通りのスケジュールで帰国の途に着いた。

多くの人に感謝して、人々の優しさを実感した旅であった。

越えられない壁はない。大袈裟だが心からそう思ったのだった。

結びに。14年後の今

初めての海外旅行にもかかわらず、色んな人々に迷惑をかけた理由を挙げると、

(渡航前)
・直前まで忙しく、インド旅行を自分事にできていなかった
・根拠もないのに何とかなるだろうという自分への過信
・事前の情報収集不足と準備不足

(現地)
・インド人と金で色々揉めたが大した金額ではなかった。騙されたことへの怒りで我を失っていた
・人見知りを正当化し、インド人と絡むことにびびってしまった
・異国のカルチャーに対するリスペクト不足
・そもそも語学力の無さ

など、自分には未熟な要素しかなかったことを強く反省した。

とはいえ、諦めない気持ちと色んな人のサポートがあれば、事態を好転させることができるという超ポジティブ思考が生まれたのも事実であった。

参考までに大学卒業後については、

・新卒で入った会社で英国企業との合弁事業の立上げに参画したり
・政府系機関への出向でベトナムに駐在させてもらったり
・3年間で100回近くアジア中心に海外出張したり、英語で講演したり

と、海外に関わる仕事が沢山できたのは、間違いなくインド旅行の反省によるものだ。

そして、2016年秋にインドにも出張する機会があった。
海外で色んな経験を積んだからか、8年前と同じ景色でも見え方が全く異なっていることに気がついた。少しは成長したのかもしれない。

その後、僕はアジアで出会った沢山の若者に刺激を受け、チャレンジ精神に尊敬の念を抱き、大企業からスタートアップに転職したのであった。

(終)


出国許可が下りた後に撮った1枚。残っている写真はこれだけ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?