『文章心得帖』鶴見俊輔
山上たつひこの「がきデカ」は、1970年代の小中学生に絶大な支持を受け、大ヒットしたギャグマンガです。
小学生でありながら警察官という「こまわり君」がやたら下半身丸出しで
「アフリカ象が好き!」
「八丈島のキョン!」
と叫ぶシュールで下品なギャグは当時の私の好みではなく、おもしろいとも思いませんでした。
それでもリアルタイムで読んでいました。
おもしろいと思わない人間が読んでいた。
そのくらい世間的には受けていたマンガです。
ある評論家がその著書『日本のマンガの指さすもの』の中で、その「がきデカ」を以下のように評論しています。
あの『がきデカ』というのがみんなに読まれているうちは、ああ、日本人にはこういう人がいるんだな、日本ってこんなんだなという自画像をもっているうちは、まだまだ安全だと思っているんですよ。
この評論家であり哲学者・思想家であるのが、鶴見俊輔という人です。
今回取り上げるのは彼の著作『文章心得帖』です。
鶴見俊輔が、あるところで開いた文章教室で話したことを記録した本です。
鶴見の講義と受講生の宿題、その講評という形になっています。
大衆文化であるマンガを評論したことからわかるように、鶴見は大衆の目というものを意識した思想家でした。
一方で大衆の目がいかに危険なものであり警鐘を鳴らしていたことがこの本からも読み取れます。
それは最初の方で「紋切り型の言葉とどう戦うのか」というのに表れています。
そこには、彼の理想の文章の三つの条件が書かれています。次のとおりです。
* 誠実さ
* 明晰さ
* わかりやすさ
1. 誠実さ
誠実さとは、どこかで聞きかじった他人の言葉ではなく自分の言葉で語ることです。
紋切り型を使わないこと。
このことの意味するところは、自分の言葉には自分で責任を負う、ということだと私は思いました。
他人の言葉を使用すると、どこか「みんなが言っている」というエクスキューズが発生します。
それは卑怯で誠実ではない、というのが鶴見の主張だと思います。
2.明晰さ
「誠実さ」の次に続く「明晰さ」は、使用する言葉の説明ができることです。
自分でもよくわからない言葉を使用しないということ。
自分の肉となっている言葉を使うこと。
3.わかりやすさ
三番目の「わかりやすさ」はちょっと難しく「明晰さ」と区別しにくいです。
手持ちのボキャブラリや知識で説明ができる、ということと読みました。
読者なり著者なりが持っている知識の範疇を超えないで書くことと言えばいいでしょうか。
同一の背景や知識を持っている人ならば理解できるように書くということ。
大衆を相手にしているのであれば大衆の言葉で言いつくせること。
※※※※※
この「紋切り型の言葉とどう戦うのか」から始まって
・「見聞から始めて」
実体験に基づくこと
・「目論見をつくるところから」
文章全体の構成を設計すること
・「文章には二つの理想がある」
理想の文章論
と進みます。
さて、それぞれの中身を見ていきたいところですけど、この本に書いてある文章の方法論は、ちまたの方法論と大きく違うところはなく、あえて説明する必要を感じません。
しかし、鶴見の特異な経歴と照らし合わせると理解や納得の度合いが大きく変わってくるのです。
■ティーン・エイジ 鶴見俊輔
鶴見俊輔は、日本ではあまり素行が不良すぎてどの学校にもなじめず、年齢的に高校生ぐらいのときに親からアメリカに厄介払いされています。
「年齢的に」と書いたのは、彼が日本の高校(どころか中学も)卒業していないからです。
アメリカでハーバード大学を卒業したところで日米開戦となって日本に帰国しました。
■プラグマティズム
多感な時期にアメリカ的な思考を身につけた彼が戦後の日本に紹介した思想が「プラグマティズム」でした。
一般に「実用主義」という訳されるこのアメリカ的な思想は、極端なことを言うと
「何かためにならないことは意味がない」
につきるのではないかと思います。
(私も詳しくはないのであまり真に受けないように)
このプラグマティズム的な考えが、本書にも表れているような気がします。
文章というのも受け手に通じないと意味がないですしね。
マンガもいろんな意味で実用的でプラグマティックじゃないですか。
鶴見が文化の表層を読み取るために積極的にマンガの評論をしたのもうなずけます。