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『ルポ 誰が国語力を殺すのか』を読んで

 SNSで話題になっていた本書。その話題の中心は、帯に書かれている「『ごんぎつね』で「母の死体を煮ている」と誤読する小学生たち」と国語力とのつながりについてである。生徒が「母の死体を煮ている」と考えるのは時代の背景知識の不足に起因するものであり、著者の主張する国語力の問題ではないというものだ。一通り読んでみて、確かに「「母の死体を似ている」という誤読」については、私もSNSでコメントを残している人たちと同じ意見である。
 しかし、それ以外の点については、SNSのコメントと異なる感想や、納得を抱くことができた。その点について整理していく。

1)そもそも「国語力」とは何か。

 著者は、「国語力」を文科省の定義も踏まえながら次のように表現している。

 私が思うに国語力とは、社会という荒波に向かって漕ぎだすのに必要な「心の船」だ。語彙という名の燃料によって、情緒力、想像力、論理的思考力をフル回転させ、適切な方向にコントロールするからこそ大海を渡ることができる。
同著 序章より

 どんな言葉を使って、どのように相手の言葉を受け止めたり、どのように自分の思いや考えを伝えていくのかを吟味し、使っていく力こそが国語力であると考えているのである。
 この点については、最もな考え方であると思う。一般的な読解能力も絶対に必要である。しかし、それだけが国語の力ではないのは、多くの人が共感するところではないだろうか。著者の重視する「国語力」はまさに、「それだけ」ではない点なのである。
 しかも、往々にして一般的な読解力が低いとされる生徒は、「語彙という心の燃料」も「情緒力、想像力、論理的思考力」も不足してしまい、社会的弱者になってしまうことがある。
 著者は、その点を問題視していることがうかがえた。

2)「国語力」の低さとは

 そのため、「国語力」の低さについても、いわゆる「読解力の低下」「今の子どもの能力が低くなっている」という言い方はしていない。本書で言われているのは、現在の社会生活において必要とされる国語力が足りていない子どもが存在している、ということだ。
 学力的な国語力が低いとされる人は昔もいたであろうと、筆者は想定している。その上で、社会人になってから求められる力の変化に伴う就学段階での学習内容の変化や、子どもたちの身の回りを取り巻く環境の変化が大きくなっているのに、国語力を身につけさせる環境や時間が不足しているという指摘である。

 そうした国語力の低さの影響が感じられる場面が、いじめ・不登校・非行という問題を抱える生徒と関わる場面に多くある。自分の状況や思い、失敗などを、言語化することができない。言語化することができなければ、自分を客観的に見ることができない。むしろ客観的に見るとつらい現実に向き合わざるを得ず、言語化をさらに遠ざける。こうした悪循環によって、どんどん言葉を失っていく。
 第三章から第六章の内容は、その様子を詳細に読者に訴えているように思われる。「ルポ」の醍醐味ともいえる章であると感じた。

3)どうしたら必要な国語力を育てられるのか

  家庭内で国語力を育てる資源に差がある現状を踏まえ、NPOでも取り組みが多く行われている。しかし、そうしたNPOに必要な家庭がアクセスできるかというと、なかなかうまくいかないことも多い。
 そのために、学校教育が大切であると筆者は考える。第七章・第八章では、それぞれ小学校と中学校の取り組みが紹介されている。言葉と向き合い、自分と向き合う授業は、参考になることも多い。
 しかし、教員として働いている中で、そうした紹介されているような授業を展開できるかと言われると、正直厳しい。
 第七章・第八章で紹介されている内容以上に、第三章から第六章で紹介されている内容の方が、普段の学校生活で活用できる場面が多いのではないかと思う。学力も国語力も支援が必要な生徒も取り組める内容であると考えられるからだ。

  本書は、国語力の不足を実感させられる背景も丁寧に描いている印象がある。特に、第二章の戦後から現在にかけての教育の変遷、特に経験主義との距離感に悩む様子は、わかりやすくまとまっている。
 そして何といっても「ルポ」として、自分の思いを言葉にできず、困っている子ども(大人も)いるという事実には目を向けなくてはならないと思わされる一冊である。

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