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橋本治というレトリック。
「革命的半ズボン主義宣言」(河出書房新社)を読む。80年代の「名著、復刊。」と帯にある。40年前に冬樹社から発行されその後河出文庫に収められた著書の復刊だ。帯にはこんな抜き書きがある。
意味のない義務感というものほど人を狂わせるものはない。なぜ大人は半ズボンを穿けないのか?ただの我慢で通すには日本の夏はあまりにも暑すぎる。であるにもかかわらず、どうしてズボンの丈を切ってしまえという発想が出て来ないのか?
半ズボンを捨てた日本人(「パンツをはいたサル」みたいだな)として、是非ご高説を賜りたいものだと購入した。というのは真っ赤な嘘で、橋本治という人は、忘れた頃にふっと舞い降りてくる変なおっさんなのだ。出会い(会ってないけど)はご多分にもれないであろう「桃尻娘」。映画もしっかりと観た。忘れもしない三ノ輪の小さな映画館。そして広告批評を読むようになって、巻頭の随筆で「桃尻娘」との距離にまんまとはめられた。
とにかく難解なのだ。いや、難解というフレーズは合わない。使われている言葉は平易で、文章の小難しさは一切ない。当時は「言文一緒体」なんて言われていた。厄介なのは発想の飛躍なのだ。ぽん、と予想もしないところに着地したかと思ってもそこには目に見えない糸がちゃんと繋がっていて、なるほど「風が吹けば桶屋が儲かる」のも道理とよくわかるのだが、そこに至る道筋は決して平坦ではない。共感するとかしないとか以前に、カボチャ頭を「こうしてほぐしてみなよ」と言われている気がする。
「半ズボン主義宣言」は平均的日本人(とされる)ヒトビトが取り憑かれているどうしようもない右へ倣え感を揶揄している。といってしまえば話は終わってしまうが、そんなツマラナイことを結論づけているわけではない。そもそも物事は一筋縄ではいかないわけで、著者は初めから二筋縄(ほんとうはもっとあるんだろうけど)で思考を巡らせていく。広告批評の連載のタイトルは「ああでもなく、こうでもなく」だった。大事なのは「半ズボンをはくかはかないか」じゃあない。当たり前だけど、そんなのは人の勝手だ。というより、時代は変わってもヒトビト(特におっさんたち)に染みついた意識って容易には変わらないのね。
時折舞い降りてくる人なので、そう多くの本を読んだわけではない。それでもこうして読んでいると「考えるということ」は純粋に楽しいぞと思えてくる。役に立とうが立つまいがそんな事は関係ない。知識のひけらかしに橋本治の切り取りを使おうとする人がいたら、悪手もいいところなのでやめた方がいい。そんな人はいないと思うけれど。
1月29日は橋本治がこの世を去って6年目の命日。まだまだセーター、編んでますか?