本棚の中身・誰彼すなる日記といふもの
子どもたちの夏休みももう残すところあとわずか。もう2学期が始まったところもあるようで、こんな殺人的な暑さの年はもう少し休ませてあげたい気もする。
夏休みといえば絵日記。これはいくつかの「宿題」の中でも最もストレスのないものだった。絵も文も嫌いではなかったので(むしろ好き)、一日の終わり、子どもなりのささやかな一区切りに役立っていたような気がする。
翻って大人になってからである。二十歳の前後からノートに日々の記録を書き留めていたのだが、忙しさにかまけていつのまにか立ち消えになってしまった。今は純粋に「備忘録」として手帳の上で事実だけを記載している。簡易版がスマホにあるので「いつどこで誰と何をした」かをすっかり忘れても大丈夫。その存在すらも忘れるまではまだ多少の猶予はあると信じている。
日記が面倒になったのは忙しさのほかに「何をどう書くか」がさっぱりわからなくなってしまったというのがある。自分の日記だ、何をどう書こうが勝手なのだが、ここに人に見られたらとかいう邪心が入る。公開を前提としなくてもそのヨコシマが頭の片隅から消えないので、心のままにというつもりで書いていても肩ごしにもうひとりの自分が「ほんとうにそうか」と嗤っている。その声に耐えられない。とうとう心の声は虚実ないまぜにできる詩のようなものに走ってしまった。
日記というのは、詩や小説にはない筆者の心の奥を探る楽しみがある。一見淡々と綴られた事実の中に彼や彼女は何を見ているのか。何を盛って何が削られているのか。石川啄木のローマ字日記だってくんずほぐれつ痴情のライセンスばかりじゃないのは読めばわかる。そんな日記ものを本棚の中からちょっと10冊。
八月二十三日(水) 朝から雨が降っては止みを繰り返している。ところで今日は甲子園大会の決勝戦なのだが、西宮の天気はどうなのだろう。我が家はともに東北の血を引いているのでいつもなら迷うことなく仙台育英なのだが、今年は慶応が相手だ。早く丸刈りも「彼らの好き好き」のひとつになってほしい身としては、こういう学校の躍進は支持したい。
見出しのイラストは「MULTIPLIER197」さんの作品をお借りしました。ありがとうございます。