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本棚の中身・誰彼すなる日記といふもの

子どもたちの夏休みももう残すところあとわずか。もう2学期が始まったところもあるようで、こんな殺人的な暑さの年はもう少し休ませてあげたい気もする。

夏休みといえば絵日記。これはいくつかの「宿題」の中でも最もストレスのないものだった。絵も文も嫌いではなかったので(むしろ好き)、一日の終わり、子どもなりのささやかな一区切りに役立っていたような気がする。

翻って大人になってからである。二十歳の前後からノートに日々の記録を書き留めていたのだが、忙しさにかまけていつのまにか立ち消えになってしまった。今は純粋に「備忘録」として手帳の上で事実だけを記載している。簡易版がスマホにあるので「いつどこで誰と何をした」かをすっかり忘れても大丈夫。その存在すらも忘れるまではまだ多少の猶予はあると信じている。

日記が面倒になったのは忙しさのほかに「何をどう書くか」がさっぱりわからなくなってしまったというのがある。自分の日記だ、何をどう書こうが勝手なのだが、ここに人に見られたらとかいう邪心が入る。公開を前提としなくてもそのヨコシマが頭の片隅から消えないので、心のままにというつもりで書いていても肩ごしにもうひとりの自分が「ほんとうにそうか」と嗤っている。その声に耐えられない。とうとう心の声は虚実ないまぜにできる詩のようなものに走ってしまった。

日記というのは、詩や小説にはない筆者の心の奥を探る楽しみがある。一見淡々と綴られた事実の中に彼や彼女は何を見ているのか。何を盛って何が削られているのか。石川啄木のローマ字日記だってくんずほぐれつ痴情のライセンスばかりじゃないのは読めばわかる。そんな日記ものを本棚の中からちょっと10冊。

「二十歳の原点」高野悦子(新潮文庫)説明不要の名著。時代は少し前になるが、誇らしくも未熟な若気の至りがここにある。もちろん「序章」「ノート」と3冊セットで。
「オートバイと初恋と」浮谷東次郎(ちくま文庫)夭折した伝説のレーサー。青春の熱さ、恥ずかしさがここにある。アメリカ縦断記「俺様の宝石さ」の前史。
「昭和二十年八月十五日 夏の日記」(角川文庫)有名無名問わず「個人の記録」としての日記の数々。みなが深く首を垂れるたれて打ちひしがれたわけではない。当たり前だけど。
「『死への準備』日記」千葉敦子(朝日新聞社)がんと闘いながら死の直前まで書き綴ったひとりのジャーナリストの日記。突然倒れ命からがら生還した身には、死がそこまで迫ることへの心構えはできていない。
「戦中派焼け跡日記」山田風太郎(小学館文庫)当時若き医学生だった著者の見た「暗黒の惨憺たる日本」とは。
「神戸震災日記」田中康夫(新潮文庫)未曽有の災害にひたすら奔走しながら社会の病巣も見据えていたひとりの作家のレポート。
「放屁庵退屈日記」篠原勝之(角川文庫)「土踏まず」というのは家から一歩も外に出ないことである。その一行の日もまた良し。
「追憶の一九八九年」高橋源一郎(角川文庫)昭和が終わり、平成になる。巻末の高橋家年表に「とても日記には書けないこと」が起こるとある。
「あぶらげと恋文」松下竜一(径書房)「豆腐屋の四季」の作者のあまずっぱい青春の味。社会運動家でもある作家がまた違う顔で現れる。
「つかへい腹黒日記」つかこうへい(角川文庫)虚か実か、それは作者のみが知る。いや、読者が勝手に決めてもいい。PART3まである。

(順不同)

八月二十三日(水) 朝から雨が降っては止みを繰り返している。ところで今日は甲子園大会の決勝戦なのだが、西宮の天気はどうなのだろう。我が家はともに東北の血を引いているのでいつもなら迷うことなく仙台育英なのだが、今年は慶応が相手だ。早く丸刈りも「彼らの好き好き」のひとつになってほしい身としては、こういう学校の躍進は支持したい。

見出しのイラストは「MULTIPLIER197」さんの作品をお借りしました。ありがとうございます。



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