「世界で最後の花」と絵本たちのこと。
村上春樹の新訳で話題のジェームズ・サーバー「世界で最後の花」。あとがきで訳者は大人のための寓話とした方が作者の真意が伝わるかもしれないと言っているが、はたして。
ここだけを読むと「世界で最後の花」は一見シンプルに今私たちが守らなければならないものの象徴のようだが、そうではない。手に取ればわかるが、その花は繰り返される人間の愚行のタネでもある。なんて厄介な。ニューヨーク・タイムズ紙が「戦争に関する作品のなかで、最もシリアスで、最も皮肉とユーモアを感じる一冊である」と評したのはそこにある。もちろんあとがきに難癖をつけているのではなく、ペシミズムにならされた大人の思考は一筋縄ではいかないのだ。それでも諦観と希望のはざまで「さてどうしたものか」と立ち止まらせてくれる。子供はこの絵本から何をどう感じとるのだろうか。
子供がいないので「読み聞かせ」というものをしたことがない。読んであげたら、そのあとの子供とのコミュニケーションはどうしているんだろう。底の浅い教訓じみた読後感の押し付けだけはしないでほしい。我が身を振り返ると、母親が当時流行の「情操教育」に熱心だったので就学前はそれこそ絵本に囲まれて育った。福音館書店や岩波書店がその中心の出版元だ。最初はやはり読んでもらっていたらしいのだが、そのうち字を覚えてしまえば好き勝手に開いていたようなので、さっぱり記憶にない。小学校に入ると絵本への興味はそのまま漫画へと移行した。しかしあの頃石森章太郎や赤塚不二夫への傾倒は、それまで触れてきた絵本の延長線上にあるのは間違いない。
蛇足ついでに、今でも強く印象に残っているあの頃(いずれも1965年までの就学前)の絵本(絵のある寓話)を10冊ランダムに。まず中川李枝子・大村(山脇)百合子のゴールデンコンビ「そらいろのたね」「ぐりとぐら」、乗り物なら「しょうぼうじどうしゃじぷた」「きかんしゃやえもん」、動物ものなら「スーホの白い馬」「どろんこハリー」「ぞうさんババール」ひょっとして活劇への入門だった「エルマーのぼうけん」大人の空中戦に巻き込まれた「ちびくろサンボ」ロードムービーともいえる「ちいさいおうち」。特別枠としてブルーナの「うさこちゃんシリーズ」を挙げておきます(これは造形へのリスペクトなのです)。
「だから自然は大事なの」とか「命は粗末にしてはいけない」とかありきたりの感想などよりもっと深いところを動かす力を絵本も持っている。時には絵本を手に取って、大人もいいわけだらけの頭のコリをほぐした方がいい。