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憎悪とは何か?(そのメカニズムについての考察)

第1回目から4回目の投稿までは「うつ病」について語りました。その後は前回の13回目の投稿まで特定のテーマを設けずいろいろなことについて書いてきましたが、ここでまたすこし心理学系のはなしに戻りたいと思います。


さて、では、テーマにも掲げましたが、憎悪とは一体何でしょうか?
またそれがどういうメカニズムによって生じるのかについて考えてみたいと思います。

憎悪と嫌悪は違うのでしょうか?
嫌悪というのは憎悪より軽く、それは主に個人のまったく個人的な生理感覚にもとづくものでしょう。
たとえば、中肉中背の男は好きでないとか、脂性の人は見るのもおぞましいとかいったようなことです。それは個人的な生理感覚にもとづいていることが多く、自分からはそういったものがおぞましくとも自分の友達は全然平気かもしれません。
つまり、それはまったく個人の生理感覚の域をでないものです。

では憎悪のほうはどうでしょうか?
憎悪の「憎」は「憎たらしい」ということです。
憎たらしいといったような、あまり上品とはいえないような感情が生じるのにはどういった条件が必要なのでしょうか?
いきなり結論ぽくなってしまいますが、憎悪の発生とはそれはある個人のジレンマが急騰したことと関係してると思われます。
憎悪が生じたということは、ある個人のジレンマが何かのきっかけでそれが急に膨れ上がったということです。
逆にいえばジレンマがない個人というのが仮にいれば、その人はもしかすると他のもっとジレンマをかかえてる平均的なひとより憎悪が生じにくいとも考えられます。

わたしたちは、学校などに行って教科書を開いて、ぼんやり机にすわってればよかった年頃を過ぎますと、つまり大人になりますと、しばしジレンマが膨れ上がります。
最近では、中学生かあるいは小学生高学年になりますとはやくも学校が終わったあとに夜遅くまで子供たちが塾漬けになっています。
いまは子供のころから個人がジレンマ過多なのです。
子供たちが抱えるジレンマは人生のどこかではたして軽くなるのでしょうか?
一流校に受かればほどなく一流企業を目指した就活がはじまり、めでたく一流企業に入れれば今度は果てしない出世競争が待っている。
一方そういうコースを歩んでいる人とは別に何をやっても生活が上向かない低所得層も増えています。
ジレンマ過多の人は増加してると見て間違いないようです。
ちょとはなしが逸れてしまったのでもとにもどしましょう。
個人は先ほども言ったように、学校に何となく登校して教科書を開いて机に座ってればよかった年代を過ぎますと大抵人は様々なジレンマを抱えだします。つまり個人差はありますが、どんなに平常心が保たれてる個人でも何らかのジレンマを潜在的に抱え持っています。そこへある何らかのファクターによってジレンマが急騰するのです。それが憎悪につながると思われます。
たとえばピーマンを見るとジレンマが急騰するんであれば、ピーマンは憎悪ファクターです。
この憎悪ファクターは単独ならまだ始末がいいのですが、今日のような複雑な社会ではしばし複数セットの複雑な構造になっています。
たとえば、ピーマンが嫌いなのは分かっているのに食事にそれを出す母という形になりますとピーマンと母はセット的な憎悪ファクターとでもいうものになり、単独でもそれなりにパワーがあるのに、それが組み合わさるのですからパワーも倍というわけです。

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