頑張んなくてもいいんじゃね? いや、でも……結果を出してる人の切実な理由
頑張れば結果が出るとは限らない。
頑張らないほうが上手くいく。
これは、近年よく見かけるセリフだ。
頑張らない方が確かに上手くいくケースもあるのだろう。
女子が意中の男子に積極アピールしすぎて、ドン引かれてしまったみたいなはなしはよく聞く。
反対に好意を示してきた男性に、女王様しすぎて、さよならされたというケースもあるだろう。
どのあたりに正解があるのだろう。
結局、あたまの良し悪し、才能の有無、要領の良し悪しだよというはなしもある。
頑張らないほうが上手くいく。
これは多分非常に個人差があるのだ。
わたしは占いというか運勢学もかじっているが、個人の運命は、それによれば、ものすごく大雑把に他力開運型と自力開運型に別れる。
もちろん判別がややこしいケースも多いのだが、他力開運型というのは、たとえば若い頃遊びで原宿あたりを歩いていたら、そのまま大手芸能プロダクションにスカウトされて、一躍テレビタレントになって、そのまま突っ走ったとかのケースがわかりやすいだろう。
二世・三世議員とかもこのケースが多いだろう。
他力開運型はまた協力者を得るのに、自力開運型の人より要領がよかったりする。
こういった他力開運型の人の人生訓を自力開運型の人がそのまま真に受けてしまうと、色々おかしなことになる。
自力開運型は最初のほうでは、少なくとも他者の協力は得にくいことが多いだろう。
自力開運型が特に若いうちに他力を当てに(しすぎ)ると、依存心丸出しになってしまい、家族・両親以外からは見放されてしまうことも考えられる。
わたしは若い頃引きこもりだったが、そうすると家族以外の人からは直接の助力は得にくくなる。
自力開運型の人だと尚更である。
でも、頑張ってどうすんの?
この疑問はある意味正しい。
日本は今日現在、外貨の獲得で潤うフェイズではないため、持たない庶民が馬車馬のようにむやみに動いても結果にはつながらないケースも多いだろう。
でも、頑張ってどうすんの?って真顔で言える人の多くは、そんなに波風たたない対人関係下でそんなに頑張らなくても月収25万ボーナスつきが最低でも実現してる人じゃないだろうか(そんな環境が今日どのくらいあるのか知らないけど)
35歳をすぎてる男女が婚活とかにガツガツして、ホントに結果が出るのかという意見もよく聞く。
ことの是非はひとまず置いといて
頑張ってる人というのは、常に切実な動機が存在するものだと思う。
それが美徳なのかどうかはよくわからないし、美しいものなのかも一概には言えないけど、
病気で倒れたり、うつ病になったという人も出てくれば尚更だ。
自殺で終わったなら元も子もない。
でも、頑張る人には多く切実な動機が存在する。
今日、人にやたら頑張れとは言いにくい雰囲気がある。
「頑張れ!」がうつ病の人にほぼ禁句なのは周知のとおりだし
外貨の獲得で潤う時代は終わったのだし、また単純労働の類いはいくらやっても、フツーの意味での富にはむすびつかないだろう。
この文は、年齢問わず、「できれば結果を出したい」という気持ちが少しでもある人に向けて(自分も含めて)書いている。
「結果を出す必要など特にない」という人には何の意味もない文章になっている。
現世での結果なんて、ひょっとするとそんなに素晴らしいものじゃないかもしれない。
万が一、ベンツや高級マンションが手に入っても、虚しいだけかもしれない。
そんなもののためにあくせくするより、夕陽の美しさを実感できる生き方のほうが素晴らしいというのは僕にもわかる。
しかしまた、そんな悟ったような達観の中には落ち着けない自分もどこかにいる。
1年365日頑張れる人は少ないだろうが、一ヶ月のうちで一日も頑張らない人が結果など出せるのだろうかという疑問は消えない。
もちろん最初のほうで述べた通り、他力開運型と自力開運型という大雑把な違いはあるにせよだ。
頑張んなくてもいいんじゃね?と真顔で言える人は多分よくも悪しくも動機が存在しないのだ。
あるいは、最初から結果のようなものが見通せる人なのかもしれない。
あるいは人間が必死に手に入れようとしてるものなんてそれだけの価値がないことが見通せる人なのだろう。
もちろん、病気の人とか、疲労が極まってる人は頑張るよりまず休むことが大切だろう。
頑張ってる人にウンザリすることももちろんある。
目を塞ぎたくなることもある。
でも、どちらかといえば、noteをはじめとするSNSでは、頑張ってる人からエネルギーをもらったり励まされたりしていることのほうが多い。
noteみたいな空間だと、結果はインテリジェンスや運や工夫の産物であるかのような記事ほうがウケるのかもしれない。
しかし、ハウツーだけいくら吸収して分かったような気になっても、肝心の動機がなければどうしようもない気もする。
結果を出してる人の多くには切実な動機がある。
動機だけでは続かない
それも真実だろう。
動機より「システムをつくる」みたいなはなしだ。
しかしやっぱり結果を出した人の多くはしばし切実な動機が存在していたのだと思う。
ピカソの「ゲルニカ」は動機と不可分だと思う。
「ユニクロ」みたいなのも動機と結果が結びついてるんだと思う。
だから「ユニクロ」はこうやって作りました、とか、「ゲルニカ」はこうやって作られましたというハウツーはしばし皆が考えてるほど意味がない。
ほとんどの人はハウツーに「うんうん、なるほど」と納得するけど、本当はそれらの結果は動機と不可分なのであって、ハウツーの結果ではおそらくないのだ。
動機が雪だるま式に膨れ上がっていって様々なものを引きつけて吸収していくんだと思う
ハウツーはそれだけを集めれば、商品の展示会を作れるだろう。
商品を眺めるのと一緒になってしまう。
それらは動機があって初めて意味を持つし
ある種のハウツーは動機があれば生み出せるが、動機が存在しない空間のハウツーは商品カタログに近くなってしまう
結果を出してる人の背後には大抵切実な動機が存在してるのだと思う。
(あとがき)
なんか抽象的な一般論ぽくなってしまいましたが、テストで一夜漬けとかしたことあるかもしれませんけど、一夜漬けみたいなことですら、動機なしには難しいものですよね。
(製作データー)
書き始め 2021年3月8日 午後15時27分