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お江戸まで、ちょっとお宝探しに~吉穂堂×落語×現代美術×民藝のぜいたくざんまい~(旅じたく篇)

10月だというのに、夏日になるとの予報にくらくらした10月19日。
須磨からお江戸・東京までおのぼり行脚に旅立ちました。

そもそもは、林家あんこ師匠の創作落語『北斎の娘』の公演を拝聴したい!という一年越しの想い(もはや恋)からでした。


創作落語『北斎の娘』について知ったのは、昨秋のこと。
いぬいさんの記事のトップ画像に、まさに目が釘付けになりました。
(「釘付け」って、ある意味怖い表現だと思っていたのですが。こんなときのためにあったのですね)

というのも、偶然にも朝井まかて氏の『眩』を読了した矢先だったのです。


恥ずかしながら浅学にして、北斎に絵師となった娘がいることも、その娘が『吉原格子先之図』というレンブラントの『夜警』と並び称される肉筆画を描いていたことも知りませんでした。書店で平積みにされていた『眩』の表紙の絵に、くらくらと惑わされ手が伸びていました。ひと目で、『吉原格子先之図』と葛飾応為の虜になってしまったのです。

葛飾応為『吉原格子先之図』太田記念美術館所蔵/太田記念美術館HPより借用

西洋絵画に比べると、浮世絵や日本画は多分にデザイン的だと個人的に思っています。それでも、こんなふうに光と影を、いいえ、闇を効果的にデザインした日本画を見たことがありませんでした。もちろん、版画とは異なる肉筆画ですから、浮世絵ではありません。にしても。父の北斎の画風とも、狩野派の日本画とも、一線を画す――「この絵は、なんだ」と。

北斎の有名な『神奈川沖浪裏』も非常にデザイン的な絵ですが、構図の奇抜さに尽きます。すばらしい着想と視点ですし、北斎の天才性がいかんなく発揮されています。ですが、見方を変えれば、構図の奇抜さで見る者を圧倒するにすぎません。(美術評論家でもないのに、エラソーですみません)

かたや、応為の『吉原格子先之図』は寓意と含意に満ちています。
西洋絵画のような肉感的な体温はなく、静かなのにとても饒舌です。
格子の向こう、光に浮かびあがる艶やかな女郎や花魁。けれども、彼女たちの隣にあるのは闇。光は一瞬の幻でしかないのだと、無言の寓意をつきつける。光をあびている座敷側は、格子に囲われ出ることのかなわぬ苦界であり、格子のこちらの闇の側にこそ自由があるのだというアイロニー。提灯や行灯が放つ光の輪の真下には影がある。北斎という光の傍らで、陰に甘んじた応為の心のうちまで暗示しているようです。なんと言葉に出せない多くのことを語っている絵でしょうか。
けれども、そうした含意があることをひけらかさない粋は、恬淡としたデザイン的な画風にあるのでしょう。


「この世は、円と線でできている。」

『眩』の冒頭の一句です。
天才絵師、葛飾北斎を父にもつ応為の物語は、北斎の胡坐の中に抱えられ、父が描く筆の先を見つめる幼子の描写からはじまります。
もちろん『眩』は、朝井まかて氏が創り出した世界です。
林家あんこ師匠の創作落語『北斎の娘』は、主人公は同じお栄(応為)でも、まったく別の創作であって、比べるものでも、比べてよいものでもありません。それがどんなに不遜なことであるかも、十二分にわかっています。
けれども、小説でならいくらでも頁を尽くして語りつくせる悲喜こもごもを、たった二時間の落語公演にどのようにしてまとめられているのか。
創作まがいのことを書き散らしあがいている身として、その秘訣を知りたいという気持ちを押さえることができませんでした。本当に不遜ですよね。
(あんこ師匠、すみません。心より深謝いたします)
でも、ですね。歌舞伎やお芝居であれば、たとえ二時間の公演であっても、複数の登場人物によって描き出すこともできるでしょう。現代劇には一人芝居もありますが、それでも舞台演出があり、俳優は動き回ることもできる。
高座に座ったままで、たった一人が語る落語で、小道具も手ぬぐいと扇子だけで、どうやってあの世界を描くのか。それが知りたかった。
浮世絵や日本画が、西洋絵画のような遠近法や写実を放棄し、デフォルメされた線だけで艶と奥行きと抒情を描き出すように。

落語は「円と線」の芝居といえるのではないでしょうか。

林家あんこ師匠が「円と線」だけで語る応為の物語。
それは、期待をはるかに超えた世界でした。


ひとまず、長くなったので、今日はここまで。
旅の顛末は、また、明日にでも。




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