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緑の閃光(#シロクマ文芸部)

 夕焼けはあのひとを思い出すから嫌い、と桟橋の向こうの外海で朱色に身を焦がす夕日にナギは背を向ける。
 あのひとって誰、と訊くと、名前は忘れた、と手をひらひらさせる。そのくせ帰り際にわざと、あはは、と笑いながら砂浜でくるりと一回転して目を細め夕日を盗み見るのを、あたしは知っている。

 幻を追っているのだという。
 あの男と幻を追い駆けたのだという。
 
 ――緑の幻よ。
 水平線に沈む夕日が最後に放つ翡翠の輝き「緑閃光グリーンフラッシュ」を探して、彼と世界中を巡ったわ。目撃すると、自分と他人の心が見えるようになると伝えられる幻の光。あのひとはジュール・ヴェルヌの『緑の光線』の文庫本を投げてよこし、そんな奇跡があることを教えてくれた。むさぼるように読んだひと月後、主人公のエレナをまねて二人で夕日を追い、スコットランド沖合のヘブリディーズ諸島をさまよった。数えきれないほどの小島がみどりの海に羊の群れのようにつらなり美しかった、とナギは焦点の定まらない遥かな目をする。
 追憶にふけるナギの瞳のほうが美しいと、あたしは沈みゆく太陽の残滓を追う。海風が、ゆるくウエーブのかかったナギの細い髪を揺らす。

 ――もちろんフィンガルの洞窟にも行ったわ。
 ヘブリディーズの無人島スタファ島にあって、ワーズワースやキーツ、テニスンらも魅了した特別な場所よ。ナギが秘密を打ち明けるように囁く。
 玄武岩の細く長い六角の柱がね、幾何学的に整然と並んで天然の壁と天蓋をなしているの。神が創りたもうた大聖堂と思ったわ。メンデルスゾーンの『フィンガルの洞窟』の主旋律が鼓膜に鳴り響いて、沈みいく夕日の一瞬の緑の奇跡を拝めるのではないかと胸が早鳴りしたのだけど。
 ナギは誰に向かってか、うっとりとしたまなざしを虚空に向ける。
「で、見れたの?」
「残念ながら、ノンよ」
 緋色に波打つ夕焼けの海はみごとだったわ。でも緑の光は煌めかなかった。あたしはナギの手の甲をそっと撫でる。

 ――それからよ。
 ギリシャのサントリーニでしょ、バリ島、サンタモニカビーチ、ハワイのマウナ・ケア、コスタ・デル・ソル、それからノルウェーのフィヨルド、ウユニ塩湖、ラップランドにも。夕日と緑の光を求めて世界中を巡ったのよ。どこにでも行った。夕日の美しい場所と聞けば。あのひとと手を取り合って、どこへでも。

 緑閃光は見れたの? と、あたしは訊かない。
 彼はどうなったの? とも訊かない。
 だって、知っているから。

 二人はどこにでも行ったし、どこへ行くにも二人だった。グリーンフラッシュを目撃しなくとも、互いの心がいつからか確かに見えていた。
 そうよね、おばあちゃん。
 祖父が亡くなって七年。祖母はナギと呼ばれた時間を生きている。
 昨日のことは忘れるけれど、昔のことは昨日のことのように覚えている。
 現実は幻のなかで息づいている。
 ロメールの『緑の光線』よりも美しい世界を胸のフィルムにおさめ、幻の光を求めて祖母は今もさすらっている。その手を愛しいひとに預けて。

<了>

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グリーンフラッシュは、日没直前や日の出直後の水平線などに一瞬現れる緑の閃光のこと。非常に珍しい現象で、見ると幸せになるという言い伝えも。
補色関係にある「赤と緑」の光が一瞬重なることに、自然の不思議を感じました。

ポルトガル・マデイラ諸島でのグリーンフラッシュ。
写真は、Wikipediaより借用。

フィンガルの洞窟は、こんな場所です。

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「夕焼けは」に何を続ければよいのか、ずいぶんと悩みました。
小牧部長様、よろしくお願いします。


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