ノアールの夢 #8「For Ever」
これまでのストーリーは、こちらから、どうぞ。
https://note.com/dekohorse/m/m99f01112d970
<あらすじ>
聡子のもとに現れたタキシード姿の黒猫ノアール。彼はルキアという異次元から、テラ(こちらの世界)に不法滞在するものを取り締まりに来たという。聡子は偶然ノアールの命を救っていた。そのため3つの願いを叶えてくれるという。2つめの願いにノアールが用意した夢の舞台は、露天風呂のある旅館の離れ。ところがノアールは、実は聡子の飼い猫の銀毛のシルバーだとわかった。そして、聡子は大切なことを思い出した。
<登場人物>
主人公:聡子
ノアール(異世界ルキアの黒猫)
シルバー(聡子の飼い猫:ノアールの正体)
智樹(聡子の恋人)
* * * * *
秋の日は釣瓶落としというが、気づくとあたりは群青の闇に包まれていた。斜めに切った竹筒から漏れる蝋燭の灯りが、築山へと続く飛び石をしめやかに浮かびあがらせている。また、鹿威しが闇夜に一拍を打った。
それを合図にシルバーが語り始めた。
「私を死なせてしまったことへの後悔で、日に日に心を擦り減らしていく聡子を見ているのは、辛かった。もとの聡子を取り戻すには、原因を取り除かなければならない。そう思いました」
「それには、私を死なせたという事実をなかったことにすれば、いい。あなたの記憶を書き換えようと決心しました」
「私がすべきことは、『シルバーに助けられた』を『ノアールを助けた』に書き換えること」
「それが、私が自分に課したミッションでした」
シルバーは、また、湯からあがって岩の上に飛び乗った。ひと振りで湯をあざやかに払う。艶やかに濡れた銀毛が月に照らされて妖しく光る。
「人の記憶を操作するには、印象的なできごとは残しつつ、キーとなるパイだけを入れ替える。そうすれば、辻褄があうように勝手に物事は転がっていきます」
「額に何かがぶつかったという事実。これは体感を伴っているので、書き換えることはできない。逆に私はそれを利用することにしました」
「私がポストの上にいたことに、聡子は気づいていなかった。だから、ノアールに置き換えても問題はない。あとは、あなたの立ち位置を少しだけポスト側にずらすだけ。私のしたことは、それだけです。ノアールの話は適当に仕立て上げれば、いい。夢の中のことですから、何とでもなります。目覚めたときに、けやき通りの交差点で猫を助けたという記憶だけが残ればいいのです」
「私の立てたストーリーは完璧でした」
シルバーが、自慢げにひげを立て、胸をそらす。
だが、すぐに肩を落として、最後は消え入りそうな声でつぶやいた。
「バーで足を濡らすというミスさえ冒さなければ」
うなだれて自分の足元を見つめているシルバーを、聡子はそっと抱きあげ囁く。「計画通りに行かなかったかもしれないけど。でもね」
「私は、良かったと思っているよ」
「ごめんね、シルバー。死んでまで、心配をかけちゃって」
聡子はできるだけ明るいトーンで話す。
「ぶつかったのはノアールと、私が思い込んじゃったら、シルバーの存在はどうなるの?」
「シルバーのことを忘れるなんて、嫌。それだけは絶対に」
聡子がぎゅっと抱きしめると、シルバーは慌てて顔をあげた。
「ああ、それは大丈夫です。あそこにいた猫が私ではなかった、となるだけですから。私はどこか別の場所で死んでいるのを発見されたということに。12年間の私の存在がすべて消えてしまうわけではありません」
細く長く、聡子が漏らした安堵の吐息が、湯気にまぎれる。鼻孔から鼻梁へツンと温かい涙のかけらが抜けてゆく。
「ノアールがシルバーだとわかって、私は良かったと思ってる。だって、シルバーとこうやって話をすることができたんだもの。
私のことを想って、私のことだけを考えてくれていたこと。それをシルバー、あなた自身から聞けて良かった。心配ばかりかけていたんだね」
「私はもう大丈夫。シルバーが見せてくれた夢のおかげで、やっと目が覚めたよ」
シルバーの艶やかな銀毛に包まれた肢体を、聡子は何度もやさしく撫でる。
「智樹のことは好きだよ。すごく好き。でもね。
シルバーは私にとって、もっと特別な存在。8歳から12年間、ずっと私に寄り添って一緒にいてくれたのは、シルバーだもの。親に相談できないこと、智樹に言えないこと。ぜんぶシルバーに話して、聞いてもらって。お前が私の心の支えだった。一緒に成長したのに、シルバーのほうがずっと先に大人になっちゃって」
聡子がシルバーに頬ずりする。
「ありがとう、シルバー。ありがとう」
聡子はありがとうと言うたびに、シルバーにキスをした。
シルバーは、ただ、はらはらと涙を流す。こぼれる涙は銀の粒となって夜空に舞いあがる。
「ああ、もう思い残すことはありません。私の長年の望みはかないました。欲を言えば、最後にもう1つ」
「聡子。『愛している』と言って、私にキスをしていただけませんか」
これが本当の別れになるんだな、と聡子にはわかった。だから、あふれる涙をぐっと飲みこむと、やわらかな笑顔を浮かべ、美しく光るキャッツアイを見つめながら、ひと言ひと言噛みしめるように
「愛しているよ、シルバー」
あふれる思いを込めて告げると、長いキスをした。
シルバーの体が、後ろ足から順に、後から後から銀の粒になって、チェーンの切れたネックレスの玉のように闇に散らばる。夜空がどんどん銀色に光る粒で満ちる。青白い月光に照らされた群青の闇に、無数の銀の粒が揺れながら昇ってゆく。静謐とした幻想的な光景に、聡子は涙を流しながら魅入った。悲しくてこぼす涙ではなく、美しさにふるえる涙だった。
「ねぇ、シルバー。いつになってもいい。待っているから、また、私のもとに帰ってきてね。それが、私の最後のお願い‥」
* * * * *
深い水の底を歩いている感覚だった。ゆっくりと腕を左右に掻いて前にスローで進む。あたりは暗いけれど、不思議と怖いという感覚はなかった。ほのかな光の粒が足元の闇にぽつぽつと浮かび、行く先を示してくれている。どのくらい進んだろう。やがて、遠くのほうに一点の白い光が見えた。その光に向かって、闇を掻きわけながら進むと、まばゆく強い光があたりを払うように広がり、あまりの眩しさに思わず目を閉じた。
ゆっくりと目を開けると、目の前でエノコログサが揺れていた。
そこは、いつもの河原で、聡子は自分が目を覚ましたことに気づいた。
ああ、そうだ。今日は少し気分がいい、と言うと、智樹が河原に連れ出してくれたのだった。まだ夏の熱気をいくぶん含んだ草のにおいが、乾いた風に乗って鼻をくすぐる。
聡子は智樹の膝から頭を起こした。長い夢を見ていた気がする。哀しい夢ではなく、胸の奥に温かな何かが灯るような美しい夢だ。でも、どんな夢だったのかは思い出せない。
うっすらと涙の痕があったのだろう。智樹は何も言わずに人差し指の背で、そっと拭ってくれた。
「ありがとう。心配をかけちゃったよね。でも、もう大丈夫だから」
目覚めたとたんに、そんな宣言をする聡子を智樹は訝しそうに見つめた。
それもそうだろう。2週間近く、食事もロクにとらずに泣き暮らしていたのだから。
「無理するなよ」
智樹が聡子の肩を抱いて、自分のほうに引き寄せる。肩に置かれた手には力がこもっていた。
「ありがとう。もう、泣かない。泣いてもシルバーは還ってこないもの。シルバーが助けてくれた命をたいせつにしなきゃね。そんな簡単なことに、やっと気づいた」
訥々と聡子は言葉を選びながら話す。
「そっか。じゃあ、ちょっと元気になったんなら、その、何て言うんだっけ、店の名は忘れたけど、聡子が行きたがってたバーに、今度、行くか」
「ううん。あれは、もういい。冴子に煽られただけだから。それに、なんかもう行ったような気分なの。何でだろうね。行った覚えはないんだけど」
川面を撫でて上がってくる風にまどう髪を押さえながら、聡子はふわりと笑う。智樹は肩を抱く手にさらに力をこめ、ゆっくりと話す。
「ごめんな。あの日、俺があんな態度をとらず、ひと言、『今度その店に行くか』とさえ言っていれば」
「シルバーを失うことはなかったのにな」
最後は絞り出すように、それだけ言うと、智樹はぎゅっと唇を噛みしめた。
「私も悪かったの。冴子たちにからかわれて、意地になっちゃって」
聡子は川面で踊る光を眺めながら、智樹の声を胸の内に滑りこませる。
「それだけじゃないだろ。俺は聡子に甘えすぎてたんだ。いつも聡子が文句も言わずに傍にいてくれることに。ごめんな。居酒屋やこの河原ばっかりで。なぁ、行きたいところがあったら、どこでも連れて行くから。俺、そういうとこ気づかないから。言って欲しいんだ」
智樹が真剣なまなざしで聡子を見つめる。
土手の上を自転車の高校生が走り抜けて行った。
「ありがとう。私もね、周りの話に惑わされて、大切なことが見えなくなってた。場所なんてどこでもいい。智樹と過ごす『時間』のほうが大切。それを忘れてたみたい」
「慣れって恐ろしいよね。貴重だったことも、続くと当たり前に思えて。かえがえのない大切なことが、霞んで見えなくなっちゃうんだね」
トビが向かいの木のてっぺんから川面に向けて急降下した。
「ああ、そうかもしれないな」
「シルバーがね、気づかせてくれたんだよ。その大切なことを」
「そうだな。俺は、永遠にシルバーに完敗だ」
そう言うと、智樹は立ち上がった。
智樹の尻に敷かれていた草が、じっとりと湿りを帯びたにおいを漂わせる。慣れ親しんだにおいだ。聡子は大きく息を吸い込む。
みゃう。
何かが風に乗って、微かに耳に届いた。か細い声だ。
智樹にも聞こえたようで、二人で顔を見合わせる。聡子も立ち上がった。
みゃう。
途切れ途切れに聞こえる小さな声に耳を澄ませ、あたりの茂みを覗きこみながら、二人で河原を降りていく。手をつないで。
みゃぁ、みゃあ。
草むらを掻き分けながらきょろきょろしていると、まるで呼ぶように声が大きくなった。斜め後ろだ。聡子は声のする方向に駆けた。智樹も続く。
ススキのひと群れを払うと、その根元に置かれた段ボールの中で子猫が一匹ないていた。
黒猫だ。聡子を見上げて、すくっと立ち上がった足先だけ4足とも銀毛だった。
「ノアール」
思わず聡子がつぶやいた。
「お、もう名前を付けたのか。ノアールか、いい名だな」
え? と聡子は智樹を見返す。無意識のうちに、そう呼んでいたようだ。
人差し指を近づけると、ちゅうちゅうと指を吸いだした。
「シルバーの生まれ変わりかも」
そっと両の掌に乗せる。子猫はまだ聡子の指をしゃぶっている。
「黒猫なのに?」
智樹が覗きこんで、指で背を撫でる。
「うん。なんだか、そう思えるの」
「じゃ、そうかもな」
「ノアール、よろしくね。これからは、ずっと一緒だよ」
ふわりと微笑む聡子の頬を、ひとふり、銀色の風が撫でて通り過ぎた。
( The End )
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
着地点は初めから見えていて、当初は5話でまとめる予定だったのですが。
この描写もいるかも。といった枝葉を重ねるうちに、どんどん終着駅が遠ざかり、とうとう8話にもなってしまいました。ようやく脱稿でき、少し胸を撫でおろしています。
聡子とノアール・シルバーの物語を、少しでもお楽しみいただくことができれば幸いです。
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