王冠をかけたアリバイ(2)<Ryéさん#特別企画 参加作品>
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天蓋付きの大きなベッドには、眠っているはずのアニスンの姿はなかった。部屋には南向きのフレンチ・ウインドウが3つ。すべての窓には鍵がかかっていた。アニスンの部屋は3階にあり、扉前には警官が二人。いわゆる密室だ。
トインビーは、扉前にいた警官の胸ぐらをつかみ廊下の壁に押し付ける。
「貴様らはこの部屋の警備をしてたんじゃないのか!」
ボストン警視が前髪を額に貼り付けながら廊下を駆けてくる。
「トインビーさん、お気持ちはわかりますが、落ち着いてください。今、監視カメラを確認させています」
トインビーに代わってボストンが二人の警官を尋問する。
「ここの担当はおまえらか。誰か近づかなかったか。あるいは大きな荷物を抱えた不審者が出てこなかったか」
「いえ。我々が配置についたのが19時50分。それ以降、犯行予告時間の21時まで近づく者も、部屋から出てくる不審者もいませんでした。お嬢様はすでにお休みだから起こさないようにと注意されていたので、扉は閉めたままで触れてもいません。鑑識に指紋を採取してもらえばわかります。21時15分過ぎに執事がお嬢様の様子を確かめに入室し、すぐに出てくると『お嬢様はバスルームに行かれたのか』と尋ねたので、『部屋から出られていない』と答えました。ちょうどそのとき、その猫が執事の足もとにすり寄りました。猫が紙をくわえていることに気づいた執事は、内容を確認すると、慌てて猫を抱きかかえ去っていきました。以上です」
と敬礼する。ボストンが執事を振り返る。
「なぜ、お嬢さんがいないことを、この二人に告げなかったのですか?」
「猫がくわえていた紙に『愛するものと王冠は頂戴した』とあったからでございます。犯人の目的はお嬢様だったのかと思いました。警察の方を疑うつもりはございませんが、誰が犯人かわかりません。お嬢様の無事が第一です。むやみに騒ぎたてるのは得策でないと判断いたしました」
ドン!
鈍い音が壁を振動させた。ボストンはわずかに肩をすくめて振り返る。トインビーが拳で壁を叩き、目を吊りあげていた。
「副本部長が誘拐事件に切り替えました。いったん広間に戻りましょう、トインビーさん」
広間は誘拐事件の捜査本部に変貌していた。
誘拐事件では被害者の命の安全を確保することが最優先事項だ。犯人を刺激しないためにも、すぐさまヘリコプターと投光器を撤収させ、集まっていたメディアには王冠強奪事件はガセネタであったと公表。警官の多くを引き上げさせ、現場には誘拐事件専門の精鋭だけを残した。
ボストンたちが広間に戻ると、ワーグマンは矢継ぎ早に指示を飛ばしていた。
「ボス、お嬢さんの姿は消えていました。消えていたという表現がぴったりなくらい、あとかたもなくです。窓は施錠され、廊下はジョーンズとペレス両警部補が常時警備し、執事が部屋に入るまで侵入者も、部屋から出てきた人物もいなかった。まったくの密室です」
ボストンが手短に状況を報告する。
「監視カメラを確認したが、不審人物も、お嬢さんも映っとらん」
とワーグマンは吐き捨て、煙草を灰皿でひねり消す。
「手掛かりは、これだけか」
テーブルに置いたくしゃくしゃのメモを指さす。
「それにしても、くそ忌々しい。電話やスマホを使った連絡なら逆探知もできるが、猫とはな」
犯人がついた意外な盲点にお手あげだった。
「しかたねえ。犯人の要求に従ってやろうじゃねえか。トインビーさん、王冠を壁の金庫に格納してもらえませんかねえ」
よほど頭にきているのだろう、ワーグマンの口調が雑になっていた。
「おまえらは、そこで金庫の警備にあたれ。いいか、くれぐれも気を抜くなよ。誘拐は王冠を奪うための罠かもしれねえからな」
その場にいた3人を指名する。
「ボストン、ここの指揮はおまえに預ける。動きがあったらインカムで知らせろ」
執事のサムスンが抱いていた猫を放すと、ベンガル猫のシェリーはその美しい虎斑の肢体をくねらせ、尻尾をぴんと立て歩きだした。廊下を右に曲がり、バックヤードに続く扉の下部に設けられている猫用のフラップドアを鼻で押す。
「この猫は、いつも、こっから出入りするのか」
ワーグマンが首だけで振り返りサムスンに尋ねる。
「表玄関から出入りすることのないように躾てございます」
そんなこともわからないの、とでもいうように、猫はちらりと視線をあげ首をふって裏口から庭へ出た。
プールサイドをキャットウォークで優雅に歩く。水面に白い月が形をゆがませ揺れている。猫は夜のバラ園を抜け、芝生の丘にでた。すぐ向こうにスレート屋根の質素な家があった。窓から灯りがもれている。
「あの家は?」
ワーグマンがトインビーに尋ねると、後ろに従っていた執事のサムスンが
「私の自宅でございます。旦那様が建ててくださいました」と答える。
「昔はお屋敷の使用人は住み込みでした。遠い昔の話でございます。今は夜間警備の者と当直者以外は定時になれば帰します。お屋敷に何かあればすぐに駆け付けられるように、私ども夫婦の家を旦那様が敷地内に建ててくださったのです」
猫は尻尾をふっていちもくさんに走りだし、ポーチを駆けあがると、扉下の猫ドアをくぐった。
すぐさま猫を追おうとするトインビーの腕をワーグマンは、がしりとつかんだ。
「何をする、放せ」
「犯人があの家を占拠してるなら、単独犯ではなく複数犯の可能性が高い。あんたまで捕まっちまったら、お嬢さんの救出どころじゃねえ。慎重にお願いしますよ」
ワーグマンはトインビーを押さえながらサムスンに顔を向ける。
「奥さんは? 家の中か?」
サムスンがうなずく。
「使用人が残っていては邪魔になると警察からの指示がありましたので、私以外の使用人は午後7時には帰宅させました。料理人である家内も、お嬢様がお食事を召し上がられると、食事は不要だとおっしゃった旦那様のためにサンドイッチをこしらえて帰宅したはずです」
「ボストン聞こえるか、ワーグマンだ」ワーグマンが襟元のインカムのマイクに話しかける。
「猫は屋敷の裏手にある執事の家に入った。今から乗り込むが、何人かこっちに……」と言いかけると、トインビーがワーグマンに飛びかかってマイクをひったくる。
芝生の上を二人がもみ合いながら転がる。
「何をするんだ!」
ワーグマンが馬乗りになってトインビーの両腕を芝生に押さえつけると、トインビーがワーグマンを下から睨みあげる。
「複数犯の可能性があるんだろ。仲間がどこから監視しているかもわからない。屋敷から警官が出てきてみろ。娘に何をされるかわからん。犯人が認めているのは、きみの同行だけだ。警官を屋敷から出すな! 勝手なことをするなら、きみも帰ってくれ」
セレブとしての仮面は剥がれ落ちていた。
「わかった。メモに従おう。お嬢さんの命が最優先だ」
ワーグマンはトインビーの掌にあるマイクに向けて話す。
「ボストン、聞いていたか。おまえたちは、そこで待機だ。この先、俺からの指示があるまで、誰ひとり屋敷から出すな。いいな」
ワーグマンは立ちあがり、トインビーの手を取り彼の上半身を引き上げる。仕立てのよいスーツは芝生と泥でよれよれだ。
「そういえば、夫人は昨年亡くなったんだったな」
「ああ、今日でちょうど一年だ」
「そうか」
「だから……娘まで失うわけにはいかない」
並んで前を見つめる二人のあいだを潮風が駆けあがる。眠らないロスの街の明かりが眼下の闇にジュエリーのごとくまたたいている。
ワーグマンが骨ばった手をトインビーの薄い肩に置く。
「宝を取り戻しに行くぞ」
ワーグマンの重低音が闇をゆらす。
――アニスン。
トインビーは胸のうちで娘の名前だけを繰り返した。
(to be continued)
第3話に続く。
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