『オールド・クロック・カフェ』5杯め「糺の天秤」(1)
その店は、東大路から八坂の塔へと続く坂道の途中を右に折れた細い路地にある。古い民家を必要最低限だけ改装したような店で、入り口の格子戸はいつも開いていた。両脇の板塀の足元は竹矢来で覆われていて、格子戸の向こうには猫の額ほどの前庭があり、つくばいの傍らで萩が揺れている。格子戸の前に木製の椅子が置かれ、メニューをいくつか書いた緑の黒板が立て掛けられていなければ、そこをカフェと気づく人はいないだろう。
そのメニューが変わっていて、黒板には、こんなふうに書かれている。
なぜメニューに時刻がついているのかはわからない。そこにどんな秘密があって、何を意味しているのかも。ときどき、この風変わりな黒板メニューに目を止め、開け放たれた格子戸から中を訝しげにのぞきこむ人がいる。
いらっしゃいませ。ようこそ、『オールド・クロック・カフェ』へ。
あなたが、今日のお客様です。
***An Old Lady***
「だいじょうぶですか」
正孝はアイロンの折り目も正しい時計柄のハンカチをさしだす。
顔をあげた老女は、一瞬、驚いたように両手で口をおさえ、頬を紅にそめて
「ただすさん」とつぶやき涙をはらはらとこぼした。
大文字さんが過ぎても暑さがいっこうにやわらげへんなと思っていたが、ようやっと朝晩には秋のけはいが微かに風にのるようになった。耳をつんざくほどうるさかった蝉の鳴き声が、気づくと鈴虫のふるえるような涼やかな音色に代わっている。だが、まだ肌にまとわりつく暑さがよどんでいた。
京都市役所への出張会議を終えた正孝は、遅いランチをとろうと八坂さんの朱塗りの鳥居の前で折れて東大路を南に下った。もちろん、『オールド・クロック・カフェ』でランチをとるために。三条か四条あたりの店ですませたほうが宇治に戻るにはええけど、たまにはこんくらいの寄り道も許されるやろ。
宇治市役所市民税課係長の正孝は「真面目が服を着てる」と評されるくらい生真面目だけが取り柄で、カフェの常連の泰郎には「ほんま肩凝るやっちゃな」といわれる。これまでなら勤務時間中に寄り道するなど正孝の行動指針にはなかった、それを。このくらいええやろ、と思えるようになった自らの変化に、正孝はいっこうに気づいていない。
「なんか係長、最近、変わりはりましたね」
先日、隣の席の八木さんに言われ、正孝はあわてた。
「ど、ど、どの数字がまちごうてた?」
デスクトップパソコンに額をくっつけて画面をスクロールする。
「数字はいつもどおり嫌みなくらいぴったりです」
心底ほっとした表情を浮かべて八木さんのほうを向く。
「そうやなくて。なんていうか、色がついてきた感じがするんです」
「は?」
ああ、また、八木さんがおかしなことを言いだした。彼女はときどき突拍子もないことを言うため、正孝とはたいてい会話が噛み合わないけれど。業務以外のことで正孝に話しかけてくる珍しい人物だ。
地味で目立たず誰の記憶にも残らないほど自らの印象がうすいことを正孝は心得ている。気づかんうちに服装が派手になってたんやろか、と首をかしげる。
「おもしろみが出てきたいうか、やっと人間になったいうか、肩の突っ張り棒が抜けたいうか‥‥」
八木さんは顎に人差し指をあてながら勝手にまくしたてる。けっこう失礼なことを言われている気もするが、訳のわからないおしゃべりは無視するに限る。正孝は眼鏡の奥の細い目をしばたき、グレーのアームカバーを肘まで引っ張った。
東大路を左に折れて八坂の塔へ続く石畳の坂道を歩みながら、なぜか先日の八木さんとのやりとりが浮かんで正孝は苦笑する。これも暑さのせいやろか。それとも、寄り道をすることへの罪悪感やろか。首筋とこめかみに拭いても拭いても滲む汗をハンカチでぬぐう。九月の声を聞いてもまだ京はぬるく暑い。すでにハンカチを三枚も消費している。
残りは時計柄の一枚だけだ。
六月十日の夜に『オールド・クロック・カフェ』で桂子の誕生日と瑠璃の結婚一周年記念パーティが開かれた。その引き出物として配られたのが、時計柄のハンカチだ。桂子は正孝が師匠と呼んでいるカフェの先代オーナーの孫娘で現店主でもある。瑠璃はカフェの常連の泰郎の娘で、昨年結婚したばかりの新婚さん。見た目も性格もまるっきりちがうけれど、桂子と瑠璃は姉妹のように仲が良い。桂子はすらっと背が高く切れ長の目で笑うとえくぼが浮かぶ。カフェの店主という立場もあるのだろうが、どちらかというと控えめでおとなしい。瑠璃は小柄で大きな瞳が愛くるしく黙っているとビスクドールのようにかわいい。だが、人を選ばずにずけずけと物をいう。そして、どうも正孝をからかっている節がある。パーティの席でも。
「桂子さん、お誕生日おめでとうございます」
正孝が花束を渡すと、桂子が礼を言うよりも早く、瑠璃が
「桂子さんじゃなくて、桂ちゃん。ほら、言うてみ」
桂子の後ろからさっと現れる。手にもったグラスは空だ。
「けい……、けい……」
「む、無理です。言えません。桂子さんでは、あきませんか」
「もう、瑠璃ちゃん、正孝さんが困ってはるやん」
瑠璃はくすくす笑っていた。瑠璃の隣に上背のある男性が歩み寄った。瑠璃の夫の啓介だ。
「いつもすみません。正孝君ですよね。瑠璃からしょっちゅう聞いてます」
すぐさま正孝は名刺を取り出し
「宇治市役所市民税課の時任正孝と申します」
と直角に頭を下げた。
「いやあ、話に聞いてたとおりやな」
正孝のかくかくした挨拶に啓介がうれしそうに破顔すると、「な、言うたとおりやろ」と瑠璃がまたくすくす笑った。
まさか平日のこの時間帯に瑠璃がカフェにいることはないと思うが。あの人なつっこい笑顔でくすくす笑われると、どう対応したらいいのか、正孝にはわからなくなる。
『オールド・クロック・カフェ』への路地を曲がる手前で八坂の塔を見あげた。瓦が陽射しを反射して銀に光る。五重塔の均整のとれた姿をなでるように視線をおろして、塔へと続く石段に老女がうずくまっているのに気付いた。少しようすがおかしい。朽葉色のきもの姿で、日傘を脇に置いて石段に背をもたせかけぐったりしている。熱中症やろか。慌てて坂を駆けのぼる。
「だいじょうぶですか」
声をかけると、あからさまな驚きを顔に貼りつけ、ひと言「ただすはん」と意味不明な言葉をつぶやいて涙をこぼした。それほどしんどいのか。ペットボトルのお茶はすでに口をつけている。とりあえず、まだ使っていない時計柄のハンカチを渡し、
「すぐそこにカフェがあるんです。ぼくも行くところなんで、そこで休みましょう」
「さあ、乗って」
と背を向ける。
「いややわ。恥ずかしいから、かんにんして、ただすさん」
「熱中症をあなどってはいけません。一刻も早く涼しい場所で水分をとらんと。はよ、乗ってください」
「そうどすか。ほな、すんまへん」
老女を背負い立ち上がろうとして、二三歩よたよたとふらつき、街灯の鉄柱をつかむ。
「だいじょうぶどすか」
老女の心配する声が情けなかった。
(to be continued)
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