『オールド・クロック・カフェ』4杯め 「キソウテンガイを探して」(4)
<あらすじ>
八坂の塔の近く、古い町家を改装した『オールド・クロック・カフェ』には、「時のコーヒー」という不思議なコーヒーがある。時計に選ばれた人しか飲めない「時のコーヒー」は、時のはざまに置いてきた忘れ物に気づかせてくれるという。店主の桂子が姉のように慕う瑠璃が、友人の環をともなってカフェを訪れる。「結果には原因がある」が信条の理系思考の環は、時のコーヒーなど信じないという。ところが、16番の古時計が鳴った。瑠璃は、環が正孝のプロポーズをためらっていることを指摘する。
環は8歳の誕生日に、母が男と出て行ったという過去を持つ。
正孝は環の30歳の誕生日に祇園のイタリアンレストランを予約していた。
<登場人物>
カフェの店主:桂子
桂子が姉と慕う:瑠璃
瑠璃の友人:環
環の恋人:正孝
* * * Proposal * * *
リストランテの庭をぼんやりと眺めながら、環は22年前の誕生日をたどっていた。もう涙を伴って思い出すことはない。ただ喉の奥が苦く乾くだけだ。
通された個室は三方が白い漆喰の壁で、庭を臨む正面は天井まで全面ガラス張りだった。一枚のクリアなガラスだからだろうか、部屋と庭とが地続きのような錯覚をおこす。
日本庭園には、借景という技法がある。遠くの山並みを庭の背景に取り込み一幅の絵となす。それに倣えば、「借庭」とでも呼べばいいだろうか。小さな部屋だったが、庭もその一部となし解放感があった。
庭は枯山水を模していた。
明る過ぎず暗くもなく、ほどよくライトアップされた庭は、ほんのりと闇に姿を浮かびあがらせ幻想的だった。
白砂が一定方向に線を描く。その間にタイルのように表面のつるんと平らな、丸や正方形の黒い石が配されている。御影石だろうか、あるいは。あの艶やかさは、黒曜石かもしれない。庭の正面奥、外の通りとの塀に沿って、孟宗竹が外界を画すようにきっちりと並んで植えられている。その根もとや黒石の傍らで、小さな赤い実をたわわにつけた南天が風に枝先を揺らす。ガラス質の珪素を含む白砂は、庭に面した各個室から漏れる灯りを反射して闇にきらきらと輝いている。
伝統の枯山水の庭園では、白砂は水の流れをあらわす。
だが、この庭の白砂が描いているのは水流ではない。効果的に配された黒い丸や四角を、ストレートの白い線が幾重にも規則正しく囲っている。そこにあるのは、デザイン的な構図だ。
白い砂に黒い石と、竹の緑に南天の小さな赤いドット。
素材はいずれも和の範疇にあるのに、色の対比や幾何学的な形の配列が全体の印象をまぎれもなく洗練されたイタリアモダンに仕上げていた。一つひとつが計算の積み重ねによって、結果がデザインされている。現実であるのに、現実的ではない景観が、さびた記憶へと夢遊させたのだろうか。いや、単に「誕生日」というワードがトリガーだった可能性の方が高い。つくづく誕生日は嫌いだと思う。
「本日のドルチェをお持ちしました」
我に返って、環は視線を庭から室内に戻す。
和紙を巻いたシーリングライトがやわらかな光量でテーブルを照らしている。紙燭を逆さに吊るしたようだ、と思った。鏡面仕上げの真っ白なテーブルはなめらかに輝き、見下ろした顔が影となって映る。
黒塗りの細長い漆器の角皿が静かに置かれた。
わずかに四隅が翻った縁高の漆器は黒ひと色で、細い筋目が入っている。潔いほど装飾はなく、それだけに塗りの美しさが際立っていた。その上に一枚、みずみずしい葉蘭が敷かれている。漆器の黒い筋目と葉脈が平行線でつながる。葉先がくるりと巻かれ、赤い実をつけた南天の小枝が添えられていた。
葉蘭の舟にはひと口サイズのドルチェが一列に鎮座している。
「当店人気のビジューショコラトルテを5種ご用意いたしました。左から、カシス、抹茶、聖護院蕪、ブルーベリー、柚子でございます」
緑の葉の上にあたかもルビー、エメラルド、ダイヤ、サファイア、トパーズがひと粒ずつ煌いているようだ。
心がうつむきかげんだった環は、美しい色の粒にわずかに胸が華やぎ、ようやく苦い過去から意識をリセットさせ顔をあげる。
目の前の正孝は、まだ、緊張を肩に這わせていた。
やれやれ、と環はため息をつく。
私も苦い記憶に翻弄されてほとんど料理を味わっていなかったけれど。たぶん彼は私以上にどんな料理が供されたかすら覚えていないのではないだろうか。残念なことだ。
それにしても、この人はどうして、まだ、こんなに緊張しているのだろう。個室だから、他の客はおろか店員の目すらないというのに。
「コース料理は、これが最後となります。食後酒のディジェスティーヴォなどのご要望がございましたら、なんなりとお申しつけください。では、ごゆるりとお楽しみくださいませ」
恭しく一礼をすると、給仕は静かに扉を閉めた。
環が燕尾服の去った扉から視線を戻すと、テーブルに革張りの白い小函が置かれていた。側面の中央に金の線が入っている。おそらく、そこが上蓋と本体の境目だろう。ひと目でジュエリーボックスとわかる。
「誕生日のプレゼント……かしら?」
環がおそるおそる尋ねる。
つきあっていると言えるかどうかも不確かな関係で、それも知り合って2ヶ月ほどで、誕生日プレゼントに指輪とは。
環はとまどい、その切れ長の美しい双眸が、白い小函と正孝の間をふらふらと往復する。
シーリングライトのやわらかな光に照らされた正孝の顔は、背後の白い漆喰の壁のせいだろうか、それとも極度の緊張のためだろうか、青白く透けていた。上唇で下唇を何度もなめ、口を開きかけてはつぐむ。水面であえぐ金魚のようだ。
誕生日プレゼントに、ジュエリーなんていただけないわ。
と、環が言いかけたそのとき、空気がゆらっと動いた。
「ぼ、ぼ、僕との結婚を考えていただけませんか」
まるでひと息に言ってしまわなければ、世界が終わってしまう呪文のように、最後は早口でまくし立て、語尾が不自然にあがった。目の前の正孝は、さっきまで青白かった頬を紅潮させ、動悸を鎮めるかのように胸を左手で押さえている。
「えっ?」
環は耳になじみのない外国語を聞いたのかと思った。
頭のなかでゆっくりと、吐かれた言葉を反芻し、ようやく、じぶんの迂闊さに眩暈がしそうになった。
正孝はリストランテの雰囲気に緊張していたのではなかった。
祇園で人気の店の個室を奮発したのは、誕生日祝いが目的ではなかった。
環の誕生日にプロポーズをするためだったのだ。
どうして、そのことに思い至らなかったのか。
「ごめんなさい。知り合って2カ月足らずで、まさかプロポーズされるとは思ってもいなくて。私、結婚じたいをまともに考えたことが、ないの」
環はとまどいに震える瞳のまま、おずおずと言葉をのせる。
「えっ? でも、婚活パーティーに参加していた、よね」
「ああ、あれは。詩帆に無理やり連れていかれて。だから、詩帆の付き添いみたいな感覚でしかなくて」
向かいの席で正孝の紅潮していた顔が、見る見るうちに陰る。
環はあわてて言葉を継ぐ。
「今から、ちゃんと考える。だから、返事は待ってもらえるかしら」
「もちろん。今日、返事をもらえるとは、さすがに思っていないよ」
正孝が生真面目な顔をあげ、環をまっすぐに見つめる。
ああ、きっと、テーブルの下で両手を握りしめているのだろう。肩がまた張っている。誠実には、誠意をもって応えなければ。
「2週間はどう? ちょうど2週間後がヴァレンタインでしょ。それまでに考える。イエスかノーか。はっきりとした答えが出せるかどうかは、わからないけれど。でも、前向きに検討することだけは約束する」
正孝が無言で鶏のようにこくこくと首を下げて叩頭する。
「とりあえず、この指輪は返すわ」
環が白い小函をそっと押しやる。
「いや、ヴァレンタインまで持っていて。ノーなら、そのときに返してくれればいい。イエスなら、その場で嵌めさせてほしいんだ」
正孝が両手で太ももを掴んで腕をつっかえ棒のようにしながら訴える。
その真剣さに、環は思わずうなずいて白いジュエリーボックスを手に取り、目の前に掲げる。
脳の奥で何かがチカッと微かに光った気がした。
(to be continued)
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