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それは社会的正義か~I(アイ)メッセージ

日頃、私はよく、世の中に腹を立てる。

花火大会で、「この会場は立ち見です」と言われたときも、ジムで時計が進んだままになっているのも、あまりにマニュアル通りの対応の時も、街で見かけるマナー違反にも、「なんでやねん!」と思っている。

あるグループから、メルマガが定期的に送られてくる。先日、その中の、ある文章を読んだ時、私は少し不快だった。私と考えが違ったし、あまりに言い切っていたから。過激過ぎるように思った。


問題はここからである。
この、湧き上がった気持ちは、言わずにはいられない。これを伝えるべきなのか。「社会的正義」として。

以前に「老害」という投稿をした。
「世の中の理不尽なことに、声を上げることは大切だ。ただし、時と場所と言い方を考えないと、老害だ」

まだ若い彼女たち。年配者の務めとして。「これは言い過ぎちゃうか」と伝えた方が、彼女達のためになるのではないか。そんな思いは確かにある。

でも、最近、そんな私を引き留める何かがある。ジムの場合も、「なんて面倒くさいヒト」と思われたくない。嫌われたくないのだ。いい人と思われたい。スタッフも頑張っているのだから。

もう一つ。世の中の大抵の大人は、多少いろいろあっても、「寛容な心」で受け止めたらり、認めたりしているのではないか。私が「不寛容」になっているのではないか。自分のほうが間違っているのかもしれないし。

メルマガの記事も、彼女はそんなふうに考えているのか、と思って、受け流したらいいんやん、と思う。でも、心にたまった思いはふつふつとしたままだ。

自分が所属しているボランティアグループも、よく意見がぶつかる。思い通りにしたい。「自分の意見のほうが、いい」と主張する。聞いていて心が落ち着かないときがある。

電車の中のマナー違反とかに、声を上げて注意することはできない、繊細で小心者のオバチャンなのだ。


でも、これだけは言いたいことがある。

みんな!自分の意見を言うときは、「私はこう思う」というように、「私は」をつけたらいいんだよ。I(アイ)メッセージ。そうしたら、誰も傷つかない(はず)。私は日頃、心してそうしているよ。「言い過ぎじゃないかと、私は思うよ」とか、ね。


そう言いながら、この頃、意見や考えを話すとき、「エラそうな感じ」を与えているのではないか、と悩んでいる。中身はちっともエラくないのに、

これも、心して、謙虚に謙虚に。
いやあ、話には人柄が現われるから、とりつくろっても駄目だよね!


*noteにも文句を言っております。
「サポート」は、いつから「チップ」になったんだ?

 聞いてないよ!

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