映画日記『私は憎まない』
第七藝術劇場で。
ガザをめぐるドキュメンタリー映画。
ネタバレします。長いです。自分でもよくわかっていない。映画を見ていない人はもっとわからない。先に言い訳しています。
でも、よかったら読んで下さい。
あらすじ
ガザ地区の産婦人科医、イゼルディン・アブラエーシュ博士は、ガザからイスラエルの病院に通っている。パレスチナ人とイスラエル人の両方の赤ちゃんを取り上げてきた。
だが、2009年1月、アブラエーシュ博士の自宅がイスラエル軍の砲撃を受け、3人の娘と姪が殺害されてしまう。現場からの博士の悲痛の叫びが、テレビで生放送される。
博士は叫ぶ。「なぜこんなことに!私はイスラエルで働いているのに!」
しかし、その翌日、博士は突然、「共存の架け橋になる」と語り出す。憎しみではなく。
その後、正義を求めて、イスラエル政府を訴え、娘たちの死の責任を追及する。
映画は、博士の生い立ちや、奥様や家族の生活とともに、ガザ地区の悲惨な爆撃の様子も、たくさん映す。博士本人、家族の話や、マスコミや関係者のインタビューを交えて進んでいく。
私の疑問~なぜ裁判を起こしたのか
全く、なんて人間はおろかなのかと思う。傷つけ合い、破壊し合い、そして、命が失われる。人間が傷つけ、人間が救う。
博士は、イスラエルの人々を診ていながら、娘を殺害される。これは不条理だ。生放送された、博士の悲痛の叫びが耳に刺さる。だが、博士は翌日に、「共存の架け橋になる」と語る。
「私は憎まない」
では、博士は、誰を、何を憎まないと言っているのだろう。銃撃した戦車の兵士だろうか。違うだろう。「イスラエルを憎まない」と言っているのだろうか。
私は疑問に思った。
博士は「憎まない」というなら、なぜイスラエル政府を相手に、裁判を起こしたのだろう。
裁判では、政府の責任は認めない。「戦時中だから仕方がない」また「それは、ハマスの仕業だ」とも言っているという。
生き残ったひとりの娘は、「あなたは憎みますか」というインタビューに、「誰を?」と聞き返す。そして、「こんな事態を起こしている戦争を憎む」と答えていた(と思う)
正義
博士は、復讐心や憎しみから裁判を起こしたのではない。
では、なぜ。
私は、「正義」と思った。
憎まない。だが、正義と責任は訴える。そのことで平和を実現しようとしたのではないだろうか。正義が通用するのが、平和な世界だから。
では、「正義」って何?
映画のチラシは、博士の次の言葉を紹介している。
「最後の犠牲なら、娘たちの死を受け入れる」
最後のはずがない。
ならば、博士は、決して「赦してはいない」のではないかと思う。
私は決して、博士の言動を批判している訳ではない。その反対で、素晴らしいと思う。ただ、チラシにある、「ヒューマニティに基づき行動した」とか、「平和と人間の尊厳を追求する」とかいう宣伝文句は、きれいごとのように思えたのだ。そんな単純なものではないはずだ。
「誰もが人間として同じはず」
当たり前のことだが、これも単純には言えないのか。
博士は同じタイトルの自伝を書いている。これを読んだら、もう少し理解できるかもしれない。
家族への愛
最後に。
博士の、人間としての大きさを感じた。
それと、家族への愛だ。病気で亡くなった妻への愛。殺害された子どもたち、残っている子どもたちへの愛。親戚への愛。かの地では、家族は強く結びついていると感じた。
「憎しみ」や「愛」は、宗教も関係しているように思った。
ここまで読んで下さって、ありがとうございました。