『黒い雨』を読み終わりました
最初に
井伏鱒二著『黒い雨』を読み終わりました。
文庫本は外出用なので、なかなか読み進められませんでした。
そして最後は家で読みました。
この時期だからこそ、早く読み終えたかったのです。
この本を買ったのは本当に偶然です。
毎年夏に出版社の文庫フェアがあり、本屋さんをウロウロしていて
「1冊買えばもらえるステンドグラスしおり」に惹かれて買いました。「こんな本も読まないとな」と思って。
そうしたら、読み進んでいる時に、新聞で今まだ「黒い雨訴訟」が行なわれていると知りました。なんてタイミングなんだと思いました。昨日は長崎の「黒い雨」の話も新聞に載っていました。
これからこの本の感想を書いていきたいと思います。内容について触れています。間違っているところもあると思いますが、そこはご容赦下さい。
原爆の悲惨さとそこにある生活
小説の中に出てくるのは、広島の工場に勤める閑間重松とその妻シゲ子、そして一緒に住んでいる姪の矢須子。話は原爆が落ちた後、被害に遭った人々の悲惨な状況が書かれます。一瞬にして何もかも壊滅した人間や街の様子。はだしのゲンも悲惨ですが、この本もかなり厳しい場面が出てきます。絵にすると地獄絵です。
でも、そんなに悲惨な話ばかりなのに、どこか淡々とした突き放したような雰囲気を感じたのです。初めは、だんだんと感覚が麻痺しているのだろうかと思いました。「絵」ではなく「文章」で書かれているので。次に重松たちの状況があまりに悲惨で訳がわからず、とにかく生き延びることに必死だったこと、そんななかにも生活があると感じたこと。そして、この中の「日記」が重要な役割をしているからではないかと思いました。
話は重松が中心ですが、内容は、重松が学校の資料館に納めるために書いていた「被爆日記」、矢須子の日記、その他の人の手記などが編み込まれて進みます。そのために、日記や手記は客観的に読めるのではないかと思う反面、かえって悲惨さ、無念さが伝わってくるように思いました。
そしてその混合がこの本を記録ではなく文学にしていると思いました。
黒い雨のこと
重松は人情味がありたくましいです。厳しい状況に倒れてしまいそうになりながら乗り越え、家族を想います。
矢須子は10キロぐらいの処で原爆に遭いますが、大きな怪我はしないで済みました。ただ、自宅に帰る途中で黒い雨に当たるのです。そのことで縁遠くなることを重松は心配します。
(文中より引用)
万年筆くらいの雨だったのですね。それがこの時代になっても、人を苦しめている。救済される人されない人と分断している。というか、戦後もう何十年も経っているのに。
ある部分に、重松が珍しく怒りをあらわにしているところがあります。
重松は亡くなったままにうちやられてウジ虫にたかられる人を見て、少年のころ雑誌か何かで見た詩人の詩「天よ、裂けよ、地は燃えよ、人は死ね死ね。何という感激だ。何という壮観だ・・・」を思い出します。
(引用)
この言葉は今でも生きていると思います。不正義というのはちょっと引っかかりますが、正義の戦争、いやどんな戦争でもいらない。
今この時期に
昨日のニュース番組で、明日からの広島サミットに向けての報道をしていました。原爆を語り続ける86歳と、祖父の思いを引き継ぐのが使命だという大学生と。今日は各国の首脳が原爆資料館を訪れたとニュースでやっていました。
この時期にこの本を読み終えた事の意味を思います。
これから核兵器を使うなんてありえへん。
それが読み終えた一番の感想です。