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消極的職業選択だけど

#想像していなかった未来

これは書かなくては。私のことだ。

 姉と弟にはさまれた真ん中。
子どもの頃から人見知りだった。引っ込み思案で、人付き合いが苦手で、そんな自分は駄目な人間だと思ってきた。

幼い頃、近所におつかいにいっても、店の人に声をかけられないで帰った。小学生の時、クラスメイトに「遊びに来て」と言われたが、声をかける勇気が出ず、家の前を何往復もした。

学生時代には、友達は限られていた。親友と呼べるような子もいなかった。人と話をするのが苦手で、そのあとに「うまくいかなかった」と後悔ばかりしていた。バレーボールをしていたので、周りに人はいたが、友人は増えなかった。


進路を決めるとき、社会福祉に興味があった。母親がボランティアをよくやっていたことも影響したかもしれない。福祉系大学の資料を取り寄せると、面白そうな科目が並んでいた。でも、こんな話し下手で引っ込み思案の自分には絶対無理だと思って、諦めた。ちょっとだけ得意だった英語の学部に入学した。卒業し、少しだけ働き、結婚し、子どもが産まれた。


末っ子が小学校に上がる頃、友達から「デイサービスで働かない?」と誘われた。これはチャンスだと思った。あの頃は、のんびりした時代で、資格は何も持っていなかったけど、パートで採用してくれた。

デイサービスの仕事は楽しかった。送迎車の中で、利用者さんとうまく話ができずに困ったことはあったが、お年寄りと一緒に過ごす仕事は自分に合っていたのだと思う。ドライバーさんや他のスタッフも優しく、やめようとは思わなかった。特養もある施設の行事も大好きだったし、レクリエーションで、人の前で話すことにも慣れていった。認知症の人の同じ話の繰り返しに、ずっと付き合っていられる自信があった。

利用者の一人、Mさんは、認知症が進み、大方のことは忘れていた。でも、自分の出た名門高等女学校が自慢で、何回もその名を口にした。それがちっとも嫌みではないのだ。百人一首をいくつもそらんじることができた。

ある日、Mさんが私に言った。
「先生はいいわ」
スタッフのことは全員「先生」なのだが、つまり、私のことを「あなたはいいわ」と認めてくれたのだ。私はとても嬉しかった。この一言は、それ以来、私の支えになった。


年数が経ち、周りがそうするので、介護福祉士の資格を取った。5年たち、次はケアマネジャーだ。これも、なりたかったというより、年数が経てばみんな受けるものだったのだ。

合格したある日、上司に呼ばれて、デイサービスとケアマネジャーと兼務になり、その後ケアマネジャー専任になった。

今、思えば、この頃は経験も浅く、自信もなく、ケアマネジャーらしいことは何もできていなかったように思う。おそるおそる仕事をしていた。その後、ヘルパー部門に異動となり一年。仲間がケアマネジャーの事務所を立ち上げていて、「来てくれない?」と言われ、18年いた施設をやめて、加わった。

そこには10年。継続は力だ。仲間もいたし、だんだんと「自分のやり方で良いのだ」と思うことが増えた。対人援助職はエネルギーが必要だ。その限界を感じ、去年退職した。自分によく務まったと思う。だが、人見知りで繊細ということは、人の気持ちが分かるということだと思っている。失敗も、「ああすれば良かった」と思うことも山ほどある。でも、こんな私でも信頼してくれる利用者さんがいた。

人見知りで口下手で、福祉の仕事は無理と諦めた私が、この世界で28年間働いてきた。あの時の私からすると、まさしく「想像していなかった未来」である。

自分から切り開いてきたというより、周りの人の声かけに応じてきたという「消極的職業選択」ではあるのだけど、私の人生は変わった。大きな意味を持たせてくれた。自信になっている。

今、自分が人見知りだというと、周りは「まさか!」と笑い出す。今でも近所の人と会うと緊張する。会話をあらかじめ考えておく。一人行動が好き。繊細気質と自分で思う。本質は変わってないのだ。

でも、仕事を含めたこれまでの人生経験と周りの人たちが、「自分にも明るいところがある」「人間が好き」そして、「こんな私でもいいんだ」と気づかせてくれたと思っている。

あの時、デイサービスに誘ってくれた友達に、とても感謝している。そして、同じように悩んでいる人がいたら、伝えたい。「きっと、大丈夫。こんな私でも世の中を渡ってこられたのだから」


旭山動物園

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