【シン・エヴァンゲリオン感想・批評】:ユートピアの終わり、大人の終わり、キャラクタの終わり【ネタバレ有り】2021/03/9
終わってしまった。
エンドロールを観終えて明るくなる劇場で少し動けずにぼくは思った。
14歳の頃に友人に勧められてTV版『新世紀エヴァンゲリオン』を観たのが始まりだった。アニメを観るのも始めてだった。94年生まれのぼくは95年放送開始のエヴァに13年遅れで出会った。
27歳のいま、13年越しに追っていた作品が終わった。観終えてしまった。
これを読んでいるあなたも、きっと「終わってしまった」という感覚を抱いているかもしれない。感動でも喜びでも悲しみでもなく、ただ何かが終わってしまったという感覚。
別に終わりはしない。エヴァのタイアップ作品はコンビニにこれからも並ぶのだろうし、一番くじも出るだろうし、ゲームやパチンコにも登場するし、二次創作だって書こうと思えば書き続けられる。
でも、シン・エヴァンゲリオンを観終えたときに感じたこの「終わってしまった」という感覚は、長寿シリーズの最後を観たときの感覚とは異なっていた。
この「終わり」の感覚とは何なのだろう?
昭和ノスタルジー、第三村の生活ユートピア
最後のエヴァンゲリオンでは「綾波レイが田植えをしている」。タイムトラベルでやってきたぼくが14歳のぼくに伝えても信じてくれないだろう。
シンジ、アスカ、そして綾波レイは、生き残っていた鈴原トウジが診療医を務める「第三村」に拾われ、その生活に少しずつ触れていく。
シンでは、むせ返るような「生活」のイメージの連鎖が連打される。野菜、公衆浴場、路面電車、畑仕事、住民の交流(1000人程度の集落だというから互いに顔見知りの空間だろう)。ご飯、味噌汁、授乳、赤ん坊。匂いや温度を感じるようなモチーフがこれでもかと使われている。
だが、わたしたちの生活ではない。「昭和ノスタルジー」と呼ぶべき、現在は存在しない––––そしていまだかつて歴史上に実在しなかったかもしない––––つつましく、大変だが満たされた生活のイメージの投影だ。
あなたは、そしてわたしは、昭和的生活の残滓を親や祖父母から感じたかもしれないが、ほぼ想像的な経験であり、わたしたちは「昭和的なもの」という架空のノスタルジーをレイと一緒に存分に味わう。
レイは「生活」を挨拶の言葉を覚えていく。シンジもまたレイに好意を伝えられ、遅れて、「生活」に釣りを介して身を浸し始める。ゆっくりと時間をかけて、二人の表情はゆたかになる。二人はいきいきとしだす。
ぼくはこのシークエンスにとても感動していた。やっぱ「生活」やっぱ「人間関係」やっぱ「生きる」だよなあ。背景は郷愁を感じさせ、人々は美しく労働し、笑いあい、家族は愛し合っている。一つずつ「生活」を覚えていくレイには幸福になってほしいなあと思っている。シンジくんも元気になって嬉しいなあ。
「終わってしまった」という感覚は、このノスタルジー村の経験も一つ噛んでいる。
第三村は夢想された「生活のユートピア」だ。そこには明確な不和や嫌な隣人や人間関係のいざこざはなく、美しい「生活」がある。守るべき「生活」が。やがてシンジを戦いに向かわせる動機になる。『破』のゼルエル戦前の加持–スイカシーンを拡張した機能を持つ。
この生活のユートピアは庵野秀明とわたしたちの想像力の限界を明確に示す。「生活」を「昭和ノスタルジー」でしか描けないとしたら、何よりわたしたちが「昭和ノスタルジー」に強い「生活」を見いだせてしまうのなら、わたしたちの「生活」がどれくらい単純化されたものなのかが浮き彫りになる。
わたしたちにとって「生活」とは、ほんとうにこのような昭和ノスタルジーでしかありえないのだろうか? それは結局レトロ化され陳腐化された「ていねいな暮らし」であり、もはや再現性のない架空の過去でしかない。
ぼくはふつうにこの「生活のユートピア」に憧れ、美しいと思ったが、ふと気づく。ぼくにこの世界に居場所はないだろう。そして、もし14歳のぼくがいま『シン・エヴァンゲリオン』を観たら、感動しつつ失望するだろう。ぼくにこの世界に居場所はない。
第三村–生活ユートピアはいささかもクィアではない。ポストアポカリプスものにありがちな、崩壊世界における、男–女、能力、職業、といったカテゴリの復活だ。男は男らしい仕事を、女は女らしい仕事を、そして誰もが当人の能力の仕事を、といった明確な人間の分類が自然で当然のものとして力を持つ。それはそうなのだ。生きるということに特化していくなら、それは自然に生き物的な価値観を採用せざるを得なくなる。もともとポストアポカリプスものとは、むくつけき自然化された人間への興味に駆動されているだろうし。
問題は「生活」がこうした伝統的な形でしか再建されないというビジョンであり、守るべき「生活」をこのような形でしか共有できなかった庵野秀明とわたしたちの世界観だ。
ぼくは映画を観ながらこの「生活」を守るに値するものだと賛同するが、ぼくはこのような「生活」の輪に入るのは息苦しいだろうとも思う。
ぼくは想像力の終わりを感じた。「大人になる」というキーワードが『シン』を貫いているが、「大人」とはこういう生活ノスタルジーを守ることなのだろうか?
ぼくが感動していたのは、あくまで個人的な動機で生き続けていた綾波レイ、碇シンジに公共的な動機づけをしようとする意志だった。みんなを守る、ということの実質的な意味。みんな、の実質的な価値を知ること。
公共的なものへのケアは間違いなく大人の条件であり、徳が高い。ぜひとも奨励すべきだ。だが、そのケアが生活ユートピアでしかドライブされないとしたら、何かが間違っている。わたしたちは守るべき生活を、ユートピアではない仕方で想像しなければならない。それはどんなものだろうか?
ゲンドウの長い反省、大人になること
碇ゲンドウは、第三村には絶対に住めない。その理由を最終盤にゲンドウは事細かに語ってくれる(その前の親子喧嘩のシーンはアニメ史に残る親子喧嘩だ)。TV版のシンジカウンセリングの丁寧な再演。人に馴染めなかった彼はユイに救われ、そして再び独りになった。
ゲンドウは「生活ユートピア」に「抽象的なユートピア」をぶつける。人々が一つに溶け合って、諍いも違いもない。だがゲンドウにとって他人は興味の埒外にある。結局ただ一人ユイと一緒になれればよいのだ。すべての人が一緒になるなら、自分もユイと一緒になれる(冬月司令も同じ発想である。なんでや)。
めちゃくちゃ論法が際立ってしまうが、ゲンドウの発想自体は一考に値する。ぼくにとっては少なくとも「生活ユートピア」よりはましな気もする。だが、意外とエヴァンゲリオンシリーズにおいてなぜ「抽象ユートピア」がだめなのかについては敵対者が用意されない。
『シン』でもゲンドウの手段の不正さや動機の不正さによって鑑賞者は「抽象ユートピアはけしからん」と思えるようになっているが、「抽象ユートピア」自体の検討はなされない。ここに庵野秀明の逃げがある。
結局庵野=エヴァンゲリオンシリーズは「大人になる」ことの強迫観念にひたすらに囚われ続けている。「子どもっぽい」ゲンドウの「抽象ユートピア」は手段と動機から否定されるのだが、その内実に直接対決が向けられることはない。
ゲンドウがシンジに執拗に「大人になれ」と述べる。それは自分自身への呪いである。「抽象ユートピア」はどう見ても通常の基準からは「子どもっぽい」のだが、それで何がだめなのだろう? 「大人っぽくないから」と言っても答えにならない。手段と動機が悪いと言っても、ではもしクリーンな方法で出来るとしたら?
エヴァンゲリオンシリーズは大人になることを求めて、「生活」を召喚するが、「人類補完計画」という子どもっぽい夢想に対して「子どもっぽいから」という理由を投げつけ続け、大人になろうとするも大人になることの外形を必死にエミュレートする。
「大人」の可能性は仲間との個人的な助け合いにもあり、エヴァンゲリオンシリーズはこの可能性のラインも含んでいた。シンジとアスカ、レイ、ミサトの関係は単に恋人であったり家族であったりではなく、仲間を助け、生きて帰ってくるという形での「大人」の可能性も垣間見させる。
エヴァンゲリオンシリーズは「大人になり方」を模索し続けるが、それは『シン』の形でも達成はされなかった。いや、達成はされたがそれは「生活ユートピア」を守るための大人に終わった。
二つ目の終わり。それは大人になることのぼんやりとした達成だった。
キャラクタのシャッター
ゲンドウ反省の後は、一人ひとりのキャラクタたちの物語が圧縮されたかたちで語られ、落とし前がつけられる。
唐突だがぼくはアスカファンであり、幼いアスカ(マフラーで、もこもこなの可愛い)、やけに顔リアルアスカ(一瞬誰かと思ったがすげーキレイかわいい)が見れてとてもいいシークエンスだった。アスカはかわいい。
撮影機材、スタジオの風景を顕にしながら、キャラクタの可能性を文字通りシャッターで閉じていくこのシーンは「エヴァンゲリオンを終わらせたい」という意志を感じ、つい庵野秀明にお疲れ様です––––と言いたくなる。
行かないで……とふつうに悲しいものの、庵野秀明のこのキャラクタへの愛着のなさは非常に心地よい。
キャラクタの過去や思いをあけっぴろげに語るこの反省会は、下手な演劇で、「これは人間ではない」というメタメッセージだが、わたしたちはキャラクタのリアリティに恋するわけではない。画像的イメージや設定に魅入られるのであり、キャラクタを終わらせようとしてもそう簡単には終わらない。二次創作は絶えず生まれ、CRシン・エヴァンゲリオンは誕生し、エヴァンゲリオンとソシャゲのコラボは続いていくし、スーパーロボット大戦にも出る。
だが、キャラクタはもうええわ、という投げやり感が爽快で、ぼくはここに長いあいだ好きだったキャラクタたちの終わりを感じた。改めて、キャラクタの人間でなさを示され––––相変わらずアスカは好きだが––––一つの物語の終わりを、キャラクタの生きる世界の終わりを確信できた。それは安心に似ていた。もう誰も苦しむことはないのだ。
エピローグ
最後のエピローグでは、エヴァンゲリオン二次創作で無限に見たやつが実装されていた。苦笑いを浮かべた。現実へ、ということなのだろう。こんなことしたら二次創作が捗るだけだと思うが、いい終わりだった。
長いあいだ見ていたみんなが幸せになって、ぼくは幸せだった。everybody finds love と宇多田ヒカルが言っていたからその通りになってよかった。
「生活をしろ」「大人になれ」「現実に戻れ」という表のテーマをひたすらに繰り返しながら、それを無数のジャーゴンやカッコイイメカやバトルを介してしか表現できないところにエヴァンゲリオン=庵野秀明のねじれの善さがある。
表のメッセージを裏切る庵野秀明の子どもっぽい表現行為にぼくは表現が持つ矛盾という希望を感じた。
わたしたちは大人にはぜひなるべきなのだが、「生活ユートピア」に暮らせそうもない大人が作るアニメーションが人々を楽しませ、人生を狂わせ、現実をも変えてしまっている。
『シン・エヴァンゲリオン』制作者たちは壮大な嘘を吐いている。生活も大人も現実も、めちゃくちゃな可能性に満ちている。この作品が存在する世界がそれを示している。
生活はひとつきりではなく、大人に成り方はひとつきりではなく、現実はもちろんひとつきりではない。物語を終わらせてもぼくたちの戦いはこれからだから。